暇と退屈の倫理学 by 國分功一郎〜暇な時代をいかに生きるかの視座【書評】

國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」を読んだので紹介です。

当ブログでは、僕が本当に面白いと思った本だけを出しています。

この本はかなり”重い本”です。

人生観がガラッと変わってしまうような本、すぐには役に立たないけどジワジワと効いてくる本を僕は「重い本」や「教養本」と言っていますが、これもその一つです。必読です。

教養本は、結論だけ読めばそれでおしまいではありません。

むしろ、結論にたどり着くまでの過程の方に価値があります。

本の内容を主体的にどう捉えて、どう向き合っていくかは人によって異なるからです。

そこから導き出される結論だけが「自分のもの」になります。

よって、教養本は全部読まないと意味がないと僕は思っています。

重い本は読むのに体力もいりますが、読書の習慣があって、すでに100冊ぐらいは読んでる方であれば挑戦できるのではないでしょうか。

3日ぐらいまとめて時間をとって、じっくりと読んでみてください。

「暇」が訪れてしまった現代

「暇」と聞くと、どこかマイナスのイメージがあるかもしれません。

筆者は、「暇」と「退屈」は違うと言います。

「暇」は客観的な指標で、「退屈」は主観です。

「あいつは、暇人だ」という表現に言い表せられるように、することのない時間があるのは「暇」な状態です。

その暇な時間に何もすることがなければ「あ〜やることがない、退屈だ」となります。

あるいは、休みの日。暇な時間にスポーツバーでサッカー中継に夢中になって応援している人がいれば、これは「退屈」ではありません。

「暇」と「退屈」という概念には、とても深いものがあります。

人類は生まれてこのかた、「暇」も「退屈」もあまりない生活を営んできました。

それは、喫緊の問題が山積している時代が歴史のほとんどを占めているからです。

今、日本で生きている僕たちは、「平和」なのでその意味がわからないかもしれませんね。

人間が狩猟採集民族であり、遊動生活をしていた時代を想像してみましょう。

(ちなみに人類が農耕民族になったのはつい1万年前の話であり、遊動生活をしていた期間の方が歴史としては圧倒的に長い。農耕民族の論理をなぜ当たり前と思うのか!?との趣旨も本書で述べられている。要するに俯瞰してみれば常識も価値観も変わるのだと。)

遊動生活において、生存を維持するためには毎日食料を確保せねばなりません。

陽が昇ると同時に、採集や狩りや漁業を営む必要があります。

「保存」ができないので、これは毎日課せられる仕事です。

また、人間は環境を汚し、変化させてしまいます。

同じ場所にとどまり続ければ、ゴミや糞尿で汚れたり、取る食料も減ってくので移動する必要が出てきます。

もちろん徒歩での移動です。

移動をすれば、今度はまたどこで食料が取れるのか、どこで安全を確保できるのか探さなければいけません。

まさにサバイバルそのものです。

生命を維持するためには、知恵もいるし、労働も必須です。

このような環境では、日々の生活に「退屈」と感じることはそれほど多くなかったはずです。

生存が確保されておらず、食うのに必死だからです。

このように「暇」と「退屈」の観点からみていくと、人類が生まれてこのかたどの時代も大変だったことが想像できますよね。

食料が確保できなかったり、環境が変わってしまったり、争いがあったり、病気が蔓延していたり、戦争があったり、強制労働があったり。

場所と時代によって状況はまちまちですが、とにかく大変な環境にさらされていて、生きるためにはその困難を乗り越え、「安息」を追い続ける必要がありました。

シンプルに、これまでの歴史の中で、人々は社会をより豊かなもににしようと努力してきました。

そして、「それが実現した先に人は逆に不幸になるのではないか?」というのが、本書の重要な問いかけです。

豊かな状態になるとは、基本的には「食と住が確保できること」と「身体的活動ができる健康があること」です。

多くの人々はすでに「安息」を得て、少なくとも安心安全に生きていけるだけの文明社会の中にいます。

それが現代です。

人間は「退屈」を嫌う

人間は「退屈」を嫌うのだ、というのが本書の重要な指摘です。

イエスは、「人はパンのみでは生きられない」と言います。

パンだけでは幸せに生きられない、バラも必要なのだと。

また、かのパスカルもあまりに深い洞察の言葉を残しています。

「不幸のすべての原因は、人間が部屋の中でじっとしていられないことだ」と。

つまり、人間は退屈には耐えられない生き物だと言っています。

それが、すべての苦しみを引き起こすのだと。

日々の中に刺激があること。

熱意を持った生活ができること。

何かに没頭し、打ち込むこと。

それらを求めるあまり、「いまいる場所に何も変わらずに居続けること」ができず、もう一方の別の場所へ行こうとします。

それが、人間本来に備わっている性質であると言えます。

僕が、フィリピンで見てきた原体験からもこれは当てはまるなと思います。

例えば、フィリピンでは、夜の世界で体を売って、家族のために一生懸命に働いている女の子がたくさん居ます。

僕は1年以上ローカルの中に入り込んで、彼女たちの生活、家族の状況、生き方に触れてきましたが、

「あれ、そもそも、、、もしかしたら田舎で、家族全員ファーマー(農民)として、そのままの生活をしていたら、こんなに苦労することもなかったんじゃないのか?」

と思索することもありました。(その方がいいのでそうすべきと言っているわけでは断じてありません)

こんなことを言ったら、社会貢献の仕事をしている方々に怒られそうですが、
つまり、「困難な状況を自分の選択によって引き起こしている」側面が、少なからず、しかし確実にあるということです。

彼女たちは、必死に毎日を戦っています。

体を売って稼ぐ、ということは大変に大変なことです。

想像を絶するものすごい痛みを伴います。

平和に生きている僕たちには、一生かかっても100%理解することはできないほどの痛みです。

でも、それでも「家族のため」と思って、日々忙しく戦っています。

そうして、普通に働く場合よりも多くの収入を得ています。

僕は、その姿に尊敬の念を感じながらも、

「体を売って稼いでいる彼女たちがどういう状況になれば幸せなのだろうか」と思いを巡らせています。

話が本書の内容からは完全に逸脱するのでこれ以上言及しませんが、貧困問題を考えている僕にとっては、絶対に向き合わなくてはならない命題です。

要するに、「その先」を考えなければいけないのです。

人間は、「退屈」ではいられないのです。

私たちは、暇とどう向き合うべきなのか?

先ほど見てきたように、食うのに必死、安全に生きていくのに必死、そうならざるを得ない環境にいる人は、相対的に「暇」はなくなります。

そんな余裕はないからです。

一方で、今を生きる私たちはどうでしょうか。

日本であれば、少なくとも自分ひとり生きていくのはそう難しいことではありません。

普通に働けば、普通に生きていけます。

「大変だ、給料安い、ブラックだ」となんだかんだと叫ばれていますが、自分ひとりであればバイトでも生きていけます。

そして、現代はどんな仕事でも、余暇はあります。

豊かさを求めてきた人間、そして、ある程度の余暇を増やし始めている人間。

「私たちは、暇とどう向き合うべきなのか?」が本書のテーマです。

おそらく向こう10年か20年以内にはベーシックインカム的な仕組みも世の中に埋め込まれるはずです。

AI やロボットによって、自動化が極限まで進んでいけば相対的に「暇」はガンガン増えていく可能性が大きいです。

本書のテーマは、ベーシックインカム時代・AI時代が進むとともに意義の大きさを増していくでしょう。

ここで、本書の結論だけ書いても無意味だと思うので、ここから先は本書に預けます。

そして、結論ではそこまで具体性のあるところまでは落ちていかないので、「実際どうすべきか」は、自分で考えていく必要もあるかと思います。

本書は、倫理学、経済学、系譜学、歴史学、考古学、哲学、心理学など、非常に幅広くの視点から論理を積み重ねていきます。

これも”教養本”の特徴です。

自分で主体的に向き合いながら通読すれば、人生観が変わるかもしれません。

ぜひ読んで見てください。

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