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プログラミング教育は将来使える力となるのか?

こんにちは。石川です。

2020年からプログラミング教育の導入が小学校で始まります。

気になっている方も多いのではないでしょうか?

僕は、プログラミングを2018年に初めてからwebサービスを自分で作れるようになりました。

これまでいろんなことに手を出して勉強してきましたが、中でもプログラミングは当たりだなと思っています。

挫折してきたものが多くある中でも、プログラミングをしてる時間はすごく没入できて、楽しく続けられています。

当記事は、「プログラミング知らないけど興味あるという方」や「自分の子どもにプログラミングをやらせるかどうか悩んでいる方」に向けて書いていきます。

なぜプログラミングは面白いのか?

不思議に思ったので考えてみました。

結論から言います。

「プログラミングは、分からないことが次々と襲うけど頑張れば解決できる」

多分これが1番の面白さだと思います。

僕はまだまだペーペーのエンジニアです。

周りのプログラミング学習者と比べて、深い所まで突っ込んで勉強まではできていません。

僕の場合はトップエンジニアになりたいわけではなく、経営者(事業を作る人)として力をつけていきたいので、プログラミングしてる時間はかなり少ない方です。

それでも、分からないことは次々と襲って来ます。

「あれ、これってどうやったら実現できるんだろう?」

「ん?ネットにある記事を読んでも仕組みが理解できない!」

「えー、これで上手く行くはずなのに、なぜか思い通りに動いてくれない!」

最高ですよねこれ。

プログラミングをやっていると、どれだけ勉強して進んでいってもこういった「詰まる」経験はなくなりません。

挑戦して、調べて、考えて、やっとできる。(できないままの時もあるw)

これの繰り返しです。

永遠の勉強。それがプログラミングです。

プログラミングは、人の学習能力を上げる

そもそも教育には、「コンテンツ」と「トレーニング」という二つの側面があります。

プログラミングの場合は、「コンテンツ」としてはプログラミングスキルそのものですね。

webサイトを作れるようになったり、ロボットや機械を作れるようになったり、ゲームをつくれるようになったり、データを使って解析できるようになったり、色々できるようになります。

「トレーニング」としては、自己解決能力であったり、論理的思考であったり、集中力などが身につきます。

プログラミングの効用として、一番大きいのは「人の学習能力」をあげることだと考えています。

プログラミングに限らず、人生において「どれだけ分からないことに出会えるか」の多さで、人の成長は決まってきます。

分かる事ばかりやっている人は、当然成長が止まります。

心の安定は得られるかもしれませんが、負荷も変化もないので面白くありません。

つまらない人になります。

「どれだけ分からないことに出会えるか」という点において、プログラミングは恰好の教材だと思います。

ちょっとかじってみるとわかりますが、勉強していけばいくほど分からないことにぶつかります。

そして、有り難いのはプログラミングの場合、大体ネットで正解にたどり着けることです。

世界中の誰かが同じ問題にぶつかっていて、その解決プロセスをネット上に書いてくれているからです。

例えば、CSSというプログラミング言語をいじっていて、「あれ、ボタンの形を丸くしたいんだけどどうしたらいいのか分からない!」と思ったら、グーグルで「css ボタン まる」みたいな感じで検索すると正解が出てきます。

つまり、自分で問題にぶつかって、自分で調べながら、解決していくことができます。

これができるのが、プログラミングのとても大きな所です。

ちなみに、日本の学校教育では基本的に「問題も与えてもらって、正解も教えてもらう」形です。

少しずつ変わっている流れは感じられますが、まだまだ「先生1人が喋って、生徒25人が聞く」スタイルです。

だから、学校教育を普通に受けてきている私たちは、教えてもらうことに慣れてるので、プログラミング体験はきつい人もいるのかもしれません。

分からないことが出てきても逃げない。

答えを待たずに、自分で調べて、自分の頭で考えていく。

社会人になるまでそういう経験をしてない人は意外と多いんじゃないでしょうか?

プログラミングと世の中の仕組み

次に、「コンテンツ」としてのプログラミングを考えて見ます。

プログラミングは、将来を生き抜く武器になるのでしょうか?

一旦脱線して、経済の話をします。

世の中というは、生産者と消費者に分けられます。

ほとんど全ての大人は生産者であり、且つ消費者でもあります。

お肉屋さんで1kgのお肉を買う行為。これは消費です。

お肉屋さんがお肉を売る行為。これは生産です。

牛農家さんが牛を育てる行為、誰かが牛を殺してさばく行為、運送屋さんがお肉をお肉屋さんまで届ける行為。これらも生産です。

あなたの身の回りに在るモノを振り返って想像してみてください。

私たちの生活は、たくさんの生産活動によって成り立っています。

♪一息つきながら〜人はもっとはたらく〜、の世界観ですね。

今日買ったおにぎりも、スマホで読んだニュースも生産されたモノです。

その裏には、沢山の人の労働があります。

そしてプログラミングというのは、この「労働」を自動化して「機械」に置き換える行為です。

プログラミングは、「モノやコンピュータなどに自動で何かをさせる」ことです。

玄関脇のスイッチを押したら、チャイムが鳴る。

「O N」ボタンを押したら掃除機が動き出す。

今あなたが見ているこのページ、「タイトル」を押したらトップページに遷移する。

全部プログラミングです。

子どもがやっているゲームも、皆が使っているアプリも、家庭や仕事場で身の回りにある機械も、プログラミングがあって成り立っているモノはとても多いのです。

ものすごく乱暴な言い方をすれば、もしプログラミングがこの世から消えたら、身の回りのモノはほとんどなくなるはずです。

何が言いたいかというと、プログラミングができると生産活動ができる幅がグッと広がるということです。

つまり、プログラミングができるとお金を稼ぐことに繋がりやすいかもねという話です。

先ほど、世の中は生産活動と消費活動で成り立っていると言いました。

そして大抵の場合は、生産活動(つまり、労働)と引き換えに、対価としてお金を手にすることができます。

生産は消費されることとセットなので、人の役に立つものを生産するほど、手にするお金の額も大きくなりそうです。

子どもは、大人になるまで消費専門の存在と言えます。

「生産活動をするために準備をしている」とも言えますね。

プログラミングとは、何かを生み出すための技です。

近年AIに仕事を奪われると叫ばれていますが、プログラミングで一流まで突き抜ければAIを作る側(つまり、何かの生産活動を自動化するモノを作る側)にまわれる可能性はあります。

だから、消費者から生産者に脱皮するための大きな武器になるかもしれません。

プログラミングは、大衆化するのか?

2020年からプログラミングが必修科されます。

予定はこんな感じです(2018年時点の情報)

2020年度 小学校で必修化
2021年度 中学校で必修化
2022年度 高校で必修化
2024年度 大学入試

先述した通り、プログラミングは様々な生産活動を担うので、エンジニアは実需がとてもあると思います。

「エンジニアが足りない!」と悲鳴をあげている企業はたくさんあります。

これからの時代も、もっともっと増えるはずです。

しかし、プログラミングができれば安泰なのかと言えば、そうではないと思います。

仮にもし国民皆ができるようになったら、それは代替が効くということなので給料は上がりません。

プログラミングは、それほど学習コストが高くありません。(お金をそんなに払わずとも時間さえあれば誰でも学習できます)

ですので、みんなができるようになればコモディティになります。

給料としては、むしろ下がる可能性もあるのかなと思います。

これは単に需要と供給の問題です。

同じ質で働ける人がたくさんいるならば、高い賃金は出ません。

企業のインセンティブは稼ぐことなので、安いエンジニアがいたらそっちに流れるのは自然の摂理です。

労働プールが広がりチャンスが大衆化すると、賃金は上がりにくくなります。

さらにもっと言うと、今後はグローバルでの競争も起きます。

プログラミングのコードは、ユニバーサルなものなので、基本的には、日本人が書こうがベトナム人が書こうが変わりはありません。

ベトナム人やフィリピン人など、すでに優秀な人も少なからずいます。

経済成長率が高く勢いのある国は教育レベルも上がっていくので、良い人材はまだまだ増えていきます。

これまでは場所と言語という物理的な障壁によって守られてきましたが、何らかの形で、コミュニケーションの障壁が限りなく下がる日もそう遠くないでしょう。

もはや、国境はありません。

人件費の安い国の人と勝負したら、どうなりますか?という問いです。

それを考えていかなければいけません。

ここから何が言えるかと言うと、ただプログラミングができるだけではダメで、突き抜ける必要があるということです。

突き抜け方はいくつかあると思います。

①【量をこなす。早く始める】

単純な話ですが、効果は抜群だと思います。

その理由も単純で、コモディティになったとしても量をこなす人は少ないからです。

量をこなす人が少ないので、それだけで希少性が上がります。

希少性が上がると、他に代替が効かないので賃金も上がりやすくなります。

日本でプログラミングが必修になると言っても、「プログラミング」という科目ができるわけではありません。

ちゃんとコードが書ける人はほんの一部になるだろうなと想像しています。

あくまでこれはwebサービスの一例ですが、例えばよく皆さんがみているヤフーさんのサイト。

これらのwebサイトは全てこんな感じの文字列によって書かれています。

乱暴な言い方をすると、コードが書けるというのはそういうことです。

プログラミング教育が必修化されると言っても、「プログラミング」という教科ができて、プログラミングスキルをゴリゴリ教えるわけではありません。

「プログラミング的思考」に触れようねということです。

「プログラミング的思考」とは、「ゴールを設定して、どうやったらそのゴールまで達成できるのかのプロセスを論理的に組み立てる力」です。

まあ思い切りの悪い日本のことなので、プログラミング教育は中途半端になるんじゃないかな〜と個人的には思っています。

実際、英語は6年間やってもあのレベルですからね。

「英語」はコンテンツとしてもすごく実用的なものだと思いますが、学校教育の英語科目は「実学」には程遠いわけです。

僕は東京外大に入っているのですが、入学時はほとんど喋れませんでした。

今はどうなのか分かりませんが、外大にも英語が喋れない人は普通にいっぱいいました。

いわば、試験を通ることがどういうことを意味するのかを端的に表している例だと思います。

学校の勉強だけを一生懸命しても喋れるようにはならないってことです。

ちなみに、プログラミング教育ではイスラエルなんかがすごくて、義務教育でC+とC++(言語の一つ)をやったりして、兵役とかで皆python(言語の一つ)を勉強したりするわけです。

もう敵うわけないですよね笑。

世界的には、そんな人たちがゴロゴロいます。

話を戻しますが、日本でプログラミングスキルが大衆化したとしても、やはり質の高いエンジニアはめちゃくちゃ求められます。

今も正確に言うと、「質の高い」エンジニアがいなくて企業は困っているわけです。

そういう人材にはきちんとお金を払います。

時間をかけて真剣に戦い続けて、積み上げているエンジニアさんはやっぱり次元が違うんだろうなと感じてます。

プログラミングは、かけた時間とスキル技量が比例するものです。

努力した人が報われる世界だと思います。

Facebookを作ったマークザッカーバーグも12歳の時からプログラミングの家庭教師をつけていたのは有名な話です。(この方は天才なので比較にならないかもだけどね)

結論として、悩んでいるならば、早く始めてみた方が絶対に有利です。

自分も子どもには、出来るだけ早い段階で触れる機会は作りたいと思っています。

②【有望な言語に挑戦する】

「プログラミング」と言っても色々あります。

「外国語」と一口にまとめてるのと同じようなもので、中には英語、フランス語、スペイン語、中国語、ラオス語、とか色々あって、できることも全然違います。市場も違います。

ですので、どの言語をやるのかはまず重要になってくるかと思います。

みんなができる簡単な言語だけをやってもコモディティーになるので、あまりみんなが手をつけていない言語を勉強していくのも一つの戦略です。

早いうちに学習して突き抜ければその言語においてポジションが取れるので、希少性も上がり戦いやすくなります。

但し、そうした言語は最新技術でまだ情報が少なかったり、普通に難しかったりするので、当然ながら学習コストは高めです。

また、作りたいものから逆算して言語を選ぶのも大事です。

例えば、ゲームを作りたいのか。ゲームの中でもどんなタイプのゲームが好きなのかによって必要な言語は違ってくる。といった選び方です。

2020年に小学校でプログラミングが導入されます。

現時点で詳細はまだよく分からないのでハッキリとした事は言えませんが、おそらくビジュアルプログラミングが中心になるのではないかなと思っています。

ビジュアルプログラミングとは、パズルにような感覚でロジックを組み立てたりできるものです。ゲームに近い感覚でできます。

ビジュアルプログラミングと、プログラミングの大きな違いは、コードを自分で書くのか、書かないのかです。

ビジュアルの方では、もともと色々なパーツが用意されてあって、そこから「選んで」ロジックを組んでいくような形が基本です。

コードを書く量が少ないので、とても取っつきやすいです。

子どもは初めて触れるので興味を奪わないことが大事だ、との論調でおそらくビジュアルプログラミングが中心になるんではないかと思います。

導入としてはすごく良いです。

ただ、そればかりだと僕が最初に述べた、「わからないことに出会う」経験が減ってしまうこともありそうです。

「何もわからない状況から自分で答えを探していく」

それがプログラミングの真髄だと僕は思います。

ですので、コードを書くことを早くから始めるべきかと思います。

そこに差が出るんじゃないかと思ってます。

③【プログラミング以外の得意分野を作る】

プログラミングだけでは代替が可能になるので、それに何かを掛ける戦略も良いと思います。

プログラミング × 数学
プログラミング × 将棋
プログラミング × 農業
プログラミング × マンガ

まあなんでも良いとは思います。

いろんな分野でプログラミングは必要とされているので、得意な分野が他に作れると、より武器として輝くかもしれません。

要は、興味のアンテナをプログラミングだけに絞らずに、他にも好きなことがあるならばやったほうが良いということです。

AI時代には、マニア力が価値を持ってきますので。

オーナーになるか、社員になるか

最後にもう一つ見落とせない視点があるので、書いておきます。

この間、映画「シェフ 三ツ星フードレストラン」をみました。
とても良い映画でした。

ストーリーはこんな感じです。

古風なオーナーと対立し、自分の好きなように仕事ができなかった有名シェフが、フードワゴンを始め、自分の好きなように自由に仕事をするシェフに変わる物語。

これは、プログラミングをこれから学ぶ人にとっても確実に知っておいた方が良い視点です。

オーナーになるのか、社員になるのか、です。

これは好き嫌い、向き不向きもあると思うので、一概にどちらが良いは言えません。完全にその人の価値観によります。

現実的には、どっちも大変です。

自分でサービスを作って世の中に広め、さらにお金を稼いでいくのはそう簡単な事ではありません。

その代わりイニシアチブは自分が握れます。自分の好き勝手に仕事ができます。

会社の中で働く場合は、組織はそもそも分業で成り立つので、いくら裁量がある場所でも100%ではありません。我慢する時が必ず出てきます。

その代わり、規模の大きい仕事ができたり、教えてもらえたり、そもそもちゃんと会社として既に成り立っているわけだから、安定して給料も出ます。

プログラミングを学んで自分で生きるのか、会社に務めるのかどっちの道へいくんだという話ですね。自分の幸せに直結しますので、経験を積み重ねながら考えたら良いと思います。

最後の結論として、最初に戻りますが、プログラミングによって磨かれるのは、自己解決力だと思います。

プログラミングは分からないことだらけ。

だから、楽しい。

この能力があったら、何でも学んでいけます。最強です。

スキルなんて時代時代によって、すぐ変わっていきます。

だから、もっと根幹的なそういう力がものを言うのだと考えています。

さてプログラミング、やりましょう。

 

 
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大学に行く意味はあるのか?

おはようございます。石川です。今日は前置きが長いです。

ふと、思い出しまして、、、
僕が通ってた大学は東京外大なんですが、外大にはボート大会というのがあります。1年生の時に全員参加するイベントでして、学部対抗のボートレースです。埼玉の競技場までいってやる、わりとガチ目のやつです。ボートの上に漕ぐ人が4人、かけ声かける人が1人の計5人乗って、中距離を漕いで競います。

今が形態が変わってしまったようですが、当時の外大には、二十数個の学部
(ちなみに当時、外大では学部=選考語になる。英語科、チャイ科(中国語のことね)、スペ科、ラオ科(ラオスね)みたいな)
があって、学部対抗でレースをするわけです。

外大って、そもそも男子が少なくて女子ばっかの学校なんですよね。それで、英語科などのメジャー言語の学部は全体の人数がまあ多いので、わりと男子も存在しますが、僕がいたフィリピン語科みたいなマイナー言語は全体で20人とかなんで男子は必然的に超少ないんですよね。

当時、僕らの学部は男子が5人しかいなかったので、必然的に選抜なしの全員出場でした。やったーw。もちろん、他の学部は体育会系を集めて選抜した5人で戦ってくるわけです。

ですが、結論からいうとその年僕たちは優勝しちゃいました。二十数個学部がある中で一番とりました。
ちなみに、メンバーは、「けいおんサークルのぽっちゃり、ギター野郎のイケメン、陸上部の優等生、バスケ部の俺、パチンコ大好きニート」の5人でした。

もちろんボートなんてみんな初めてでしたが、我ながら自分らはめちゃくちゃ早かったです。
あの時の水面を駆け抜ける爽快感を思い出してしまって、今書いています。
なぜか、5人の息がぴったりあってしまって、決勝まで進み、最後までぶっちぎりで勝ってしまいました。
しかも僕らは全然勝つ気なんかないゆる〜い5人だったので、試合当日の朝、1回戦の点呼の時ギリギリで到着して失格になる寸前だったんですよね。「フィリピン語科〜フィリピン語科〜いますか〜?いないの?、、、、は〜〜〜い、今キマシター!」みたいな。

っていうすみません、本当にただの思い出話でした。ごめんなさい(>人<;)

ここから無理やり中身のある話に変えると、
僕が大学に行った時の思い出ってこんなことしかなくて、何か人間的に成長したみたいなことってほぼ無いような気がします。
(もちろんこれはこれで、かけがえのない青春時代なんだけど)

つまり、わざわざ
①思い出づくり
②大卒という資格を取得する
この二点を得るために大学に学費と時間を使うことって合理的なんだろうか?と僕はとても疑問に思っています。

みんな「よし勉強するぞ」と思って大学に一度は入ると思うのですが、今の日本の現状だとほとんどの大学生は遊んでます。(少なくとも僕が学生の時はそうだったよ。数年前ぐらい)

これといってやりたいことも決まっていないので大学に行く、言い換えると「未来の選択肢を先延ばしにする」ために大学に行っている人が多数派なので、
「特に明確な目的が無い=ただ遊んで卒業する」という学生の方が多いです。僕の目から見てですけど。もっと突っ込んでいうと、遊んでいたり、大学の中だけで生活していると大抵「自分と向き合う」ってことをしないので、やりたいこともはっきりしないまま就職活動の時期がきます。
それが、特に悪いこととは思いませんが「もったいないな」とは思います。別の生き方、別の道があるんじゃないのかなって。

大学って、国立だと年間60万とか、私立だと年間100万以上するわけで、それが4年間続く訳ですよね。本当に日本中の親御さんには頭が上がりません。自分で学費を稼いでいる学生もすごい根性だなと尊敬します。しかも休学とかしても私立だとお金取られるとこも多いですからね。まじかよって感じですよね。
また、奨学金を使って進学する人もかなり多いので、それもよく考えた方がいいと思います。「他のみんなもそうしているから」と行って、それが正しい理由なんてどこにも無いですからね。

絶対大企業行きたいみたいな人や、これ学びたいって明確な目的がある人は大学へ行って良いと思います。

しかし、目的もなく大学に行くくらいなら、1年か2年、他の選択肢を考えてみるのもアリだと思います。
1年間まるまる自由があって、しかも仮に100万使えるとしたら、だいぶ冒険できるでしょう。いざ、就職するにしても大卒じゃなくても就職できるとこは探せばあると思いますしね。

以上、大学進学という進路に関するお話でした。(まとめたw)
僕は大学を進んだ(中退したけど)人間であって、自分で今言ったような道は経験していないので無責任なところもあると思いますが、大真面目にそう思っています。僕の息子もでかくなって、もしまだ何も見つかっていなければ、大学進学ではなく他の冒険する選択肢を一緒に考えてみると思います笑
選択肢が色々広がっている時代ですからね。

今日はこれにて失礼します。いつもありがとうございます。
また明日!

子育てのはなし

こんにちは。夜中にプログラミングをしていて超絶眠気に襲われている石川です。

実は、このブログは毎日時間を指定して予約投稿をしています。

大体は前日の午後に書いていますが、たまに夜中に書いています。

今日の分は、朝の5時前に書いていて隣で赤ん坊がすごい勢いで泣いているのを横目(横耳?)にしながら書いてます。

そんな状況なので、需要があるのかどうかわかりませんが今日は子育ての話をします。

今お子さんがいる男性さんでも、仕事で外にばかり出ていたら意外と何も知らなかったりするのではないでしょうか。日本では、そういう人も多い気がします。

僕の父親も完全にそうで、今の僕をみて
「いったい何が幸せなのかわからんな〜」
「俺なんか、そんなこと(逐一僕がお世話していることを言ってる)何も知らなかった」
と言っています。

まあ、親が死に物狂いで働き続けてきてくれたから今の僕の生活があるわけで、一概に結論は出せません。年をとったからというのもあると思いますが、なんか感慨深いものがありますね。

(二日前に上げた記事と深い関連があるので、まだの方はぜひ読んでみてくださいね)

また、いずれ結婚して子を持つという方にとっても子育てがどんなもんかを少しばかり知っておくことは意義があると思います。

僕は、いま全面的に手伝っていますが、正直ここまで大変とは思いませんでした。

いま僕は会社に勤めていなくて、自由にできる身なのでどうとでもなっていますが、定時で働きながらこれをするとなると、ちょっと人間ばなれした気力が必要だなと感じます。

さて、少しばかりここ最近の普段の日常を再現してみると、、、

まず、出産が終わった日から1週間ぐらいは病院で入院となります。

ママは、出産で相当痛手を追うのでほぼ動けない状態になります。血もめちゃくちゃ出ますし、動くのも痛いです。びっくりするぐらい出血します。しかも、治ってはきますが1qヶ月ぐらいは続きます。

赤ん坊は、生まれてからすぐに3時間おきに、母乳もしくはミルクをあげなければいけません。体重や月齢に応じて大体あげる量が決まっています。

お腹が減ってくると口をパクパクさせて、放っておくと大体泣きます。

最初、ママは母乳をあげようとするのですが、なかなか思うようには出てきません。赤ちゃんに強く吸われるので、乳首は荒れますし、血が出て痛くもなります。

母乳が上げられない時は、ミルクで補います。母乳とミルク混合で行く場合は、足して一定の量になるように計算して与えていきます。

個人差は、すごくありますが、母乳が出にくい人は結構つらいと思いますね。

放っておくと母乳が溜まって、胸が痛くなってくるので搾乳機という母乳を絞るための道具を使って母乳を出さなければいけません。一回に2、30分はかかるので面倒です。

ミルクであげる場合は、哺乳瓶に定量の粉を入れて、沸騰したお湯を入れて、それを人肌に冷まして赤ちゃんに与えます。

飲み終わったら、ゲップをしないと吐いてしまうことがあるので、抱っこしながらゲップさせます。

使い終わった哺乳瓶は、必ず毎回煮沸して殺菌します。まだ抵抗力の弱い赤ちゃんには欠かせません。

大体ミルクと同じようなタイミングでおしっこやうんちもするのでその都度オムツを交換します。

この一連の仕事が3時間おきにきます。

言っておきますが、「夜も関係なく」3時間おきです。

つまり、もし交代要員がいなくて子育てしてる人がいるとするならば、必然的に3時間以上は連続して眠れないことになります。

実際は、準備や片付けの時間、泣いて寝ない時間もあるので、3時間丸々休めるわけではありません。

そして、赤ちゃんは基本夜行性なので、夜になると元気になって、わんわん泣く子も多いです。

実際に隣でずーーっと泣かれると(ただでさえ2時間半おきに起きなきゃいけないのに)、相当うるさいですし、イラっとすることもあります。

隣の家が近ければ、近所迷惑も気にしなければいけません。

僕は、夜中に抱っこしてあやしながら、「子供ってこういうことなんだな〜」としみじみ感じました。

つまり、子供は完全に自分中心なわけです。

コペルニクスの地動説です。

周りなんて関係ない。自分中心で全ての出来事が回っています。

思い通りにいかなければ泣くし、相手の事情や気持ちを思う想像力もありません。

子育ては、完全に相手のペースに持っていかれます。子供のペースに合わせるしかありません。

子供から大人になるということは、
「自分は一人で生きているのではないことを知ること」なのかなーと思いました。

だから、子供には絶対に無償の愛を与えられる親が絶対に必要なんだなとも感じました。

今日は、子育てのほんのワンシーンを紹介しました。

人生において、結婚タイミングと子供を持つタイミングって結構重要だと思います。

これだけ時間の使い方も変わるし、生活がガラッと変わりますから、それを踏まえたライフプランを描いていけるといいですね。

また明日投稿します!

人類が追うべき指標はなんなのかを考えようという話

こんにちは。

助産師さんに「赤ん坊が昼夜逆転してて夜泣きがひどくて。なんとかならんのですかね?」
と相談したら「赤ちゃんはみんな夜行性なので、それは諦めてください!」と言われ絶望している石川です。

赤ん坊がお母さんのお腹の中にいるときには、日中はゆらゆら動くゆりかご状態なので寝やすい。
夜はお母さんが寝て動かなくなるので、赤ちゃんが起きて運動している。その名残りなんだって。寝れなくて困っているパパママ!はい、諦めましょう。

さて、今日は昨日の続きです。
昨日の記事を読んでない方は先にそちらを読んでね^ ^
(この世は欲で動いているんだ)

昨日は、

「こういう世界では、欲張りであることは悪いことじゃないよね」

なぜなら、

「世の中は、”欲”によって突き動かされていくから」

という話をしました。

人間が色んな欲を持ち続けているから、世界の誰かがその欲を満たすための発明をしてきました。
そうやって人間社会は発展し、人類の集合知として集積されてきました。

そういう背景を持ってして考えると、
「ビジネスの本質は、人間の欲に迎合していくこと」だと僕は考えてます。

簡単に言えば、ビジネスするならば「人が欲しがるものを作れ」って話です。
それもたくさんの人が強〜く欲しがるものを作れば作るほど、個人や会社は儲かります。

読者の皆さんは、現代を生きているので想像しやすい今の身の回りの生活を思い浮かべて欲しいのですが、まずはやっぱり「衣食住」のビジネスはとても強いわけです。
生きて行く上で絶対買いますからね。今日も皆さん食べ物を買いましたよね。
食欲は数ある”欲”の中でも、絶対に外せない優先度の高い欲望です。

一方で、例えば「妊娠中の妊婦がマタニティフォト を撮りたい!」みたいな欲望は、そもそも持つ人も少なければ、優先度としては低いはずです。お金に余裕がなければ、他のことにお金を使うはずです。

そういう意味で、「生活必需品」を抑えたプレイヤーはとても強いってことですね。そうそう潰れません。(でも、「競争がある」のはまた別の話ね)。やっぱりなんだ言っても、衣食住のフィールドで戦っている企業は売上も半端ないし、めちゃくちゃ強いわけなんです。

なんとなく、「この世は欲で動いている」のイメージがわかってきたかな?

一方で、「世間に迎合せずに自分がつくりたいモノを作れ」的な、職人気質あるいはアバンギャルドな芸術家のような考え方もあるとは思います。それはそれで僕も大好きです。その心意気は素敵ですし、時にそこから人の心をグッと掴むような大作が生まれることもあるでしょう。
ですが基本的には「人の本能的な欲」に則していないモノはどんな売り方をしようが、長く売れないと思っています。世間に全くもって迎合しないでモノを作ることは、博打に近い(あくまで、経済市場に乗せる、お金を発生させるという視点で今は話しています)

やはり「売りたい」と思うならば、どうしても人間の欲に応えていく必要があります。

つまりは、世の中というのは誕生してこのかた
「人が欲しがるものを作ったものが得をするゲーム」の中で動いているわけです。

欲しがるものを作るほど、誰かに喜ばれるし、早い話がお金持ちになれるって話です。

このメカニズムはめちゃくちゃ強い力学であって、誰がなんと言おうと世の中はそのゲームルールの中で動いています。

人の欲→満たされる→人の欲→満たされる→人の欲→満たされる

人類史を通して、この無限ループがズー〜ーっと続いてることになりますね。それもあちらこちらで。

頭の良い人ほど、または野望の強い人ほど、
人々が欲しがるモノを懸命に作って、世の中に価値を提供していきます。
どんどんビジネスが生まれて行く。

私たちは、そんな誰かが生み出してくれたモノを消費して生きているわけです。

あるいは、会社で働く人は、ある製品の生産工程の一部となって誰かの欲を満たすモノを生産しているわけです。

だいたい全ての大人が生産者であり消費者です。

そのメカニズムが連綿と続けられてきた集積の上に成り立っているのが、僕たちが生きている今の世の中。

ことに、日本において言えば、めちゃくちゃ便利な生活です。
便利どころか、小さな欲やマイナーな欲まで満たしてくれるサービスが世の中にありふれています。もっと突っ込んで言えば、地方よりも都市部の方が、よりきめ細かなサービスやモノであふれかえっています。

そう考えると、勘が良い人は
「あれ、人間の欲ってそのうちなくならないのかな?」って疑問が湧くと思うのですが、
答えは、「無くなりません」です。

これは、歴史を見たら明らかなことで、市場経済に乗った社会において「もう、このまま現状維持でいいや。何も成長しなくていい。何も新しいものはいらない。」というジュゴンみたいな境地に達した社会はないからです。(ただし、北欧社会だけは例外と言えるかも。)

それで、僕が言いたいことはここからで、
「このままいったら世の中はどうなるの?」という未来に対するクエスチョンです。

頭を柔らかくしてご自身でぜひ想像して見てください。この流れのまま社会が進んでいったらどうなりますか?
人間の欲があっては、沢山のビジネスマンや研究者がその欲に応えようと頑張って行きます。

ビジネスでは人の欲に応えて、売ろう売ろうするモチベーションが働きますから、
坂を転がした雪だるまみたいに、放っておいたら止まることは絶対になくてどんどん膨らんでいきます。

途上国と先進国の両方でどっぷりと浸かっているからこそ感じることかもしれませんが、
日本の生活水準は相当上がっていると思います。かのアダムスミスも「”必需品”の基準は上がるのだ」と言及しています。僕たちは当たり前すぎて気づきませんが、めちゃくちゃ豊かな生活を送っています。(経済的にね)

フィリピンの「普通」と、日本の「普通」は全然違います。
1900年代後半の日本人の「普通」と2019年の日本人の「普通」も全然違うわけです。

でもね、「どっちが幸せなんだろう」と言われれば、僕はわからないな〜と思うわけです。

確かに、圧倒的な欠乏状態では、「安心安全に普通に生きていくことすら難しい」状態ですので、
そこからは早々に脱するべきだと思います。腹一杯食えない、病気のリスクがでかい、戦争や事件に巻き込まれる危険がある、家族を守れない。世界をみれば、まだそういう国がたくさんあります。僕もほんの一部を見てきました。それは、絶対に解決するべきです。

日本は、概して国民の大多数の人が「ある程度豊かな生活を得る」ことにすでに成功しています。

そこから先はもはや満足度の問題であり、必ずしも
「成長」「規模」「売上」「金持ち」「名声」「地位」「所得」
そう言ったような指標で測るのは、危ういのではないか?と僕は思っています。会社にとっても、個人にとってもそうです。

例として出すのはとても恐縮ですが、わかりやすいので言及させてもらうと、日本の名経営者「孫正義さん」は誰がどう見ても「成功者」だと思いますが、測る指標が違えば、「成功者」の定義も変わってきます。孫さんが成功者と言えなくなる可能性だって、見方によってはありますよね。
(あくまで、例として出しているだけだよ。)

田舎で自給自足して、地域の人とは沢山繋がりがあって、毎日コタツで過ごしてるおっちゃんが
実は「成功者」である可能性だってあります。

僕が話しているのは、
「人類が追うべき指標はなんなのか?」
という話です。

そして、
「人類は本当に幸せになっているのか?」
という問いです。

豊かじゃない時代は、みんなで一つのゴールで良いんです。
強い日本を作ろう、豊かな日本を作ろう。野望を持って、せっせと頑張ることが共通の幸せの価値観になり得ます。そういうモチベーションが、国民総じてある程度豊かな状態まで国を引き上げます。

実際に、世界中の先人たちのおかげ様で、今の私たちの豊かさがあります。それは感謝しなければいけませんね。

でもそこから先は、未知の領域であり、よーく考えなきゃいけない。一人一人がね。

成長し続けることが本当にいいのか。
次から次へと出てくるモノを、消費し続けることが本当にいいのか。
結局メルカリに出すことになるのに、新しいブランドものばかり購入することが本当にいいのか。
“良い職”を得ようと、奨学金を使ってまで都市の大学へ行くことが本当にいいのか。
生活コストのかかる都市に住むことが本当にいいのか。
欲しいものを買うお金を得るために、勉学や友人との時間を犠牲にして働くことが本当にいいのか。
大きな家や車を買うためにローンを借りて、働き続けることが本当にいいのか。
四六時中働きに出て、結果ほとんど家庭にいないことが本当にいいのか。

僕が、『これからの時代は
「意味」「生きがい」「価値観」「哲学」「幸福観」
そういったものが大事になってくるだろう』と口癖のように言っているのにはそんな背景があります。

世の中のメカニズムは、否が応でも我々の生活に対して、抗えない重力を及ぼしてきます。
ビジネスは相変わらずたくさん消費させようとしてくるし、人間社会は相変わらずもっと豊かになろうとしてくる。

なにも僕は資本主義を否定しているわけではありません。資本主義が機能してきたからこそ、人間の欲があるからこそ、一人一人が自己の利益を追求してきたからこそ、これだけ社会は豊かになったことはまぎれもない事実だと思います。そんな資本主義には、リスペクトすらあります。

でも、フェーズがもう変わってきている。
一つは、もう十分豊かになったから。
もう一つは、日本では人口がぐんぐん減っていく時期に入ったことが変わり目の一番大きな要因です。

「欲によって動く」社会のひずみがこれからどんどん出てくるんじゃないかと思っています。つまりは、「考え直す時期」なんじゃないかなと。

僕の意見としては、「みんな幸せになれたらいいよね」というシンプルなものなので、あなたの生き方についてもよ〜く考えてみて欲しいです。

本当の幸せってなんだんだろう

あなたが追いたい指標ってなんなんだろう

ってね。

世の中や周りに流される必要はありません。常識に沿う必要もありません。答えは自分の中にしかないですし、その賛否を判断するのも自分ですから。

すごく人間臭い話になりましたが、今日はこれでおしまいです。
お読みいただきありがとうございました。またあした!

この世は欲で動いているんだ

おはようございます。石川です。

世の中で成功している人って、大概強い趣味を持っていますよね。それも、どハマり具合の強いやつを。忙しいのに、そんなにやっちゃうんだぐらいの。あれってなんなんでしょうね。僕は形から入るのが好きなので笑、とにかくどハマりの趣味を作ろうかなと考え中です。

さて、読書ネタが数日続いて飽きたので他のお話でも。

みなさん、週刊少年ジャンプは読みますでしょうか?

今連載中の「Dr.Stone」という漫画を知ってますでしょうか。
個人的に、この作者がかなり面白いなーと思ってまして。マンガとしてのストーリーもそうなんですが、おそらく良く勉強されてる人だな〜と感じるコマが多々あります。

ワンピースの尾田先生とかも、おそらく相当いろんなことを勉強していて、ジャンプに載るような漫画家は、ものすごく勉強していて、マンガに活きているんだろうな〜と思っているところです。

Dr.Stoneを読んだことのない方のためにざっと説明しますと、

物語は、原因不明の「何か」の現象によって、人類の全てが石化してしまうところから始まります。で、石化したまま何億年もの途方も無い時間が立ったので、文明は全部なくなってまさに原始時代と同じ状態みたいになります。地球には、何にも無くなりました。そんな時に、一人の少年だけ石化が解けます。その少年が、めちゃくちゃ頭の良い科学少年で、知識を使って、これまで人類が発明してきたものを、一気に時代をワープする勢いで発明してくみたいな筋書きです。ラーメンとか、コーラとか、爆弾とか、化学物質とか。石化を解く方法も見つけ、仲間を増やしながら、戦争などもありながら、色んなものを発明して、人類を再び発展させていくって話です。

その今週のジャンプのDr.Stoneの中でこんな感じのセリフがありました。

「こういう世界では欲張りは悪いことじゃないよね」

このセリフは、あるキャラクターに向けられて発せられた言葉です。
そいつは、頭はキレるやつでとにかく欲張りなやつ。今は、毎食サカナものしか食べられないので、「毎日肉が食いてー!」と思って、気球を開発して地図を作りながら、獲物が豊富にいる場所を発掘します。

次は、「食料市場ができたら、回り回って自分がガポガボ金儲けできる!」と言って、稲穂を探す旅へ出かけようとしています。

そんなキャラクターに向けられた、「こういう世界では欲張りは悪いことじゃないよね」という言葉。

これが、結構深いなーと思っていまして。

「我々の世の中というのは、”欲”によって方向付けられてきた」と言っても過言ではないと思っています。

もっと美味しいものを食べたい。
肉を食べたい。
肉以外の野菜も食べたい。
毎食お腹いっぱい食べたい
寒いのが辛いのであったかい服や家が欲しい
家族を守りたい
偉い地位が欲しい
お金が欲しい

時代によって、”欲 “の形は変わるものの人類が生まれてこのかたズー〜ーっと人間には”欲”がつきまとっています。

発明の活力のとなるのは、もとを辿れば大抵は人間の”欲”です。

つまりは、人間が欲を持つ方向に社会は進んでいくということになります。

だから、美味しいものがこの世にどんどん出来ているわけです。

言ってしまえば、人間の”欲”に応えようとしてきた集積が、今の世界です。

そう考えると、
「こういう世界では欲張りは悪いことじゃないよね」
は、めちゃくちゃ深いわけです。「こういう世界では」を翻訳すると、「圧倒的に欠乏した世界」のことです。

満足に食べれない、安心安全に生きて行くことが難しい時代。

人類の歴史を見ると、ほとんどの時代がそんな欠乏時代だったわけで、今のように「みんなが普通に生きていける」時代になったのはごく最近の話です。食料が不足してたし、病気に負けてたし、戦争があった。

そこから色んな人が、発明して「人類の集合知」が上がってきたのです。Dr.Stoneの最初に石化が解かれた主人公は、そんな「人類の集合知」を保有しているので、何万年もかかってきた進化をすっ飛ばして社会を進化させていけるとも言えますね。

野望を持つこと、欲張りであることは、発明のモチベーションそのものになりますから、こういう時代では「欲張りさん」は必要なんですね。それが社会を付き動きますからね。

きっと、今後のDr.Stoneの中でも、この欲張りキャラクターはきっと大活躍して行くと思います。(でも、そしていずれ破滅するかもね)

ということで、
今日の結論は、「この世は人の欲で動いているんだよ」でした。

また明日!

友達がいた方が人生の幸福度は高いんじゃないかという話

こんにちは。超久しぶりにがっちりマンデーをみました石川です。
面白い番組なので皆さんもぜひ。毎週日曜の朝7時30からです。がっちり!

今日のお話は、題名の通りです!どん。

僕にとっては、結構衝撃的なことに気づいたなという感じなのですが、
みんなにとっては当たり前のことなのかもしれませんねw。

というのも、僕は大学を中退してからは、マジで友達がいませんでした。
フィリピンへ行っていた時も、日本人で唯一つるんでいたのは一緒に住んでいた30代後半のおっちゃんだけでしたし、日本へ帰ってビジネス頑張ってる時も誰とも会わない生活をしていました。
今の奥さんとも遠距離恋愛で、3年間で3日間しか会っていません。とにかく生活のほぼ全ての時間を「自分の成長」のためだけに使っていました。

優先度を考えて、「時間を何に使うのか」の明確な判断軸を持っていたので、「友人に会う」ことはあえてしませんでした。

ここ4年くらいはそういう生活を365日続けてました。

そうなると必然的に友達はいなくなるわけですが、ここ最近家族ができたこともあり、少しずつ(本当に少しだけど)友達と普通に会ったりし始めました。

そんな生活をいざしてみると、これはこれで「かなり幸福度が高いな」と思い始めています。どちらも経験したからこそ自信をもって言えることです。

・一緒に食事をする
・お互いの家を行きあう
・もらい物をしたり、何かをあげたりする
・お互いのイベントごとがあったら自分のことのように喜び、つらいことがあったら心配してくれる

全て僕がこれまで捨ててきたものだったので、この何気ないことがとても幸せに感じます。

「孤独」と「友人」

ただここで言及しておきたいのは、「孤独になること」は人生の中ではとても大事な意味を持ってくると思っています。

若い時の孤独の数年間は、本当に有意義な時間をくれました。

不思議なもので色々と動き回っている中で、「あ、僕も友達全然いないっす」みたいな人に会うことも多くて、そういう人は例外なく「面白い」人でした。何かしらの「芯」を持っていると感じる人でした。

孤高は、自分だけの世界観を作り出します。

周りになびくこともなく、自分のための時間もたくさん生まれるからです。「自分」が確立されていく、孤独であることは人として成長するための条件にすら思えます。

孤独と友人。

どちらも素敵な時間をくれますが、死ぬまで孤独でいるのも相当覚悟がないときついと思うので、友人は少しずつ作って大事にしていった方が幸せなんじゃない?というのが今日の結論です。

いつの時代も、幸福になるのが人生の目的だと思っています。

人生のライフステージに合わせて、大切な友人との付き合い方も考えていきたいものですね。

大学に行くことの意義

こんにちは。車の運転中に信号が止まっては、赤ちゃんの寝顔を思い出してニコッとしてしまう石川です。はたから見たらやばいやつです。

さて、今日のテーマは「大学」です!

このブログを見てくださっている方にはいろんな層がいらっしゃると思いますが、それぞれの立場で関わってくる話かと思います。

これから大学進学を考える年齢の若い子、
受験勉強に備える高校生、
子供をもつ親、
どの方にとっても「大学」は人生における大きなイベントなのかなと思います。

そもそも、日本には確か私立・公立合わせて800ぐらいの大学があったかと思います。
(数年前に大学関連のビジネスで調べた時のぼんやり記憶で話してるので、定かじゃないですが)確かそのくらいだったと思います。とにかく、日本には沢山大学があります。
数だけの話でいえば、実はこんなにたくさんの大学はもう必要ないと、僕は思っています。ご存知の通り日本の人口は減り続けてます。2018年、つまり昨年を機に、大学入学する人数は確実に減っていきます。人口動態的に、間違いなくそうなります。

おそらく大学は、存続の危機にさらされる試練の時期でもあると思うので、潰れるなり、形を変えるなり、何かしらの変化が起きてくると思っています。

大学の歴史というのは、結構面白くて、本当にもともとの起源はヨーロッパだったかと記憶してます。12世紀前後くらいだったと思います。諸説ありますが、「ギルド」のような形で自治組織として作られたのが大学の走りです。つまり、純粋に「自分たちで色々学ぼうよ」ってノリで作られたものですね。

そこから世界へ広がっていく過程で、各地の社会事情に合わせて「大学の仕組みや役割」は異なっていきます。1700年頃に徐々に産業革命が始まって、19世紀、20世紀には一気に商業社会、工業社会へ変わっていくわけですが、その中で特にアメリカで大学は栄えました。アメリカでの大学は、今の日本の大学のイメージに近いと思ってもらっても良いと思います。(ただし、日本よりもちゃんと勉強させるし、厳しいっす)。似てるのは当然で、日本の大学制度は主にアメリカ式の大学制度を輸入したものです。

社会の変化を見る上で、「大学進学率」は一つの指標として面白いです。日本では、1960年とかそこらでは大学進学率は相当低かったです。確か20%も行かなかったはずです。(さっきから、ぼんやり記憶で話してるのでざっくりと聞いてねw)
つまり、エリートだけが行く場所です。
大学は、高給な仕事につくために必要なスキルや能力を身につける前段階の準備、その教育機関として機能していたわけです。

お金もかかるし(ここでいう「お金」は、学費だけじゃなくて、学ぶ間の時間の猶予も含めてね。だって大学に行かない人はすぐに働きに出て収入を得られるわけなので、学ぶには生活費、時間の猶予が必要です)、しかも試験のハードルも高い。
誰もが行ける場所ではありませんでした。しかし、その分「高い」能力を身につけるのにある程度の機能を果たしていいたのだろうなと推察します。

そのあとは、みなさんご存知の高度成長期に突入します。1960年代から、日本の「大学進学率」はぐんぐんと上昇していきます。この数十年で大学の数もどんどん増えていきました。それだけ、商業・工業が成長して、「高給な仕事」の需要が増えてきたとも言えますね。とにかく、高給な仕事につくため、社会にとっても使える高能力の人材を作るために「サラリーマン養成機関」として、大学が機能してきたのだろうと、僕は思っています。

大学進学率はぐんぐんと伸び続けて2000年代には50%を超え、近年では60%にも届く勢いです。二人に一人以上が大学へいく時代になっているのが今の世の中です。ちなみに、先進国はだいたい「大学進学率」は50%を超えています。お隣韓国も60%超えていたような気がします。

つまり、大学は大衆化してきた、ということです。

さて、ここまで社会全体の話をしてきましたが、ここで話を僕個人の例に一気に引き離します。

最初に言っておきますが、今日少し考えたいのはズバリ「大学に行くことは意味があるのか」です。

みんなが気になることだと思いますし、今の時代よく考えた方がいいだろうと思っています。

僕の子供も「大きくなったらどうさせるか」は考えておきゃなきゃいけないなと思ってます。

じゃ、話をしていきます。

僕は、1年の浪人を経て東京外国語大学へいきました。外国語ではNo1の学校なので結構レベルは高い大学だと思います。

それで、僕は7年間ほど在籍しのちに大学を中退しました。うち3年ぐらいは休学してました。

中退した理由は、「自分がやりたい方向性が定まってきて、大学にいることは時間がもったいなくなったから」です。

ただ中退したからと言って、安易に「大学は意味がない」と結論づけるつもりはありません。

まず
①選択肢の幅が広がる
②時間の猶予が得られる
③興味があれば学べる
の三点で大学には価値があると思います。説明していきます。

①選択肢の幅が広がる

言わずもがな、これは就職の話です。レベルの高い大学へ行くほど、いわゆる高給の企業や大企業に入れる確率は高くなります。東京外大でも「良い」就職先に行く人が沢山いました。今の時代でも学歴は立派に機能していると思います。「学歴だけで判断するなんて!」みたいなことがよく叫ばれますが、仮に僕が採用担当だっとしても、学歴は一つの指標として加味します。まあ、当然の話だと思います。受験をパスしてきた、少なくとも試験や論文を乗り越えてきた、という意味である程度の訓練は受けてることを意味します。全く何もしてこなかった人間と比べるならば、まだ信用があるのは当然っちゃ当然です。大手の採用担当も大卒なはず(=自分も同じ苦労をくぐり抜けてきた)ですから、そうなるのは当たり前です。
(でも、大学行ってない人でも、例えば「中学生の頃から自分で作曲にハマって曲を作りまくって、この前テレビにも出ました」みたいな変人がいれば僕は問答無用でそちらをとります)

②時間の猶予が得られる

これは結構でかいと思います。僕がこれを活かせたパターンですね。普通大学へ行くということは、「働くまでに少なくとも4年間の時間的猶予が得られる」ことを意味します。そうじゃない人は、すぐに働いて収入を得られる訳ですが、大学へ行く人はそうではありません。収入もないくせに、学費も生活費もかかります。機会損失がある代わりに、時間を得られます。
高校を出るまでに、「自分がやりたい方向が定まっている」人はかなり少ないと思います。僕もそうでした、ボッーとして生きていたので何も考えてませんでした。日本だと、こういう人が大多数だと思います。チコちゃんにみんな怒られるのが日本です。その場合には、大学へまず行って、 在学中に「自分の方向を定める」ことは戦略としては大ありだと思っています。ただし、最悪なのは「方向も定まらない、勉強もせず何も学ばない」ケースで、僕はこのケースが今の日本で一番多いんじゃないかと思っています。学費は、国立だと年間60万ぐらい、私立だと倍の年間120万ぐらいかかるわけです。要は、ただ遊んで時間を浪費するためにそれだけのお金をかけてるようなもんだと僕は思っています。それなりの所に就職するんだったら、別に大学に行かなくたっていいじゃんと思います。それに働く前に「遊ぶこと」が目的なのであれば、1年ぐらい集中して、日本でも世界でも自由に飛び回って遊んだ方がよっぽど効率が良いと思ってます。遊びは、やりすぎると大体飽きます。
つまり、「大学へ行って時間を浪費する」パターンが最悪で、これは絶対に避けたいなと思うわけです。

大学がまだ「サラリーマン養成機関」として機能していた時代、社会にまだまだモノがなく豊かではない時代でしたから、「豊かになろう」がみんなのゴールでした。わかりやすい時代です。みんなで一つのゴールを目指すわけです。

その頃は企業のライフサイクルも長かったです。「一度企業に就職すれば定年まで働ける」は、普通にみんなが持っていた感覚でした。しかし、現代は企業の寿命がだんだんと短くなっていて、昔は企業の寿命が60年とか言われてましたが、今では10年単位で会社も生まれ変わります。新しい企業が出ては、古いのが衰退して行く。確かに変化の激しい時代です。
そうなると、「一度企業に就職すれば定年まで働ける」は成立しません。つまり、職能(仕事に必要なスキル)も一つではダメだし、新しいことをどんどん学んでいかなきゃ行けない。

そういう意味では、大学のうちに少なくとも1つ専門性を身につけておくという経験はとても大きな軸になります。年をとって変化しなきゃいけなくなったとしても、軸が一つある人間は他のことだって学んで行けます。強いです。

あるいは、大学のうちに様々なことに挑戦して、複数のことをしっかりと勉強・経験することもすごく有意義だと思います。これからの時代にもあっています。

そのどちらもせずに、何も勉強しない、何も経験しない、ただ部活をやってバイトをやって、遊んで、卒業は最悪です。めちゃくちゃお金が勿体無いと思います。

僕も子供が大きくなったとき、高校卒業してまだ「自分の方向性」が定まってなくて、本人が「大学へ行きたい」と行ったら、進学は考慮します。
ただし進学した場合は、大学の「外へも出る」ように促します。僕がやりたい方向性が見つかったのも、大学を休学してフィリピンへ行ってからでした。留学でもないし、語学学校でもありません。ただ、好奇心に任せて動いていたら偶然導かれるように、自分の方向性が見つかってきました。学校の中には予定調和しかないので、とにかく外に出るように環境を整えてあげます。

あるいは、子供が特に「時間の猶予」だけが欲しいのであれば、他の選択肢も考えると思います。時間の猶予を得るために大学へ行かすのは、はっきり行ってコスパが悪い。(優等生で真面目に大学でも勉強を続けて、一流企業に就職するような子なら別ですが、多分チャランポランな僕の息子はそうならないと思うので。)
海外に興味があれば、とりあえず海外へ放り込むし、例えば音楽とか絵画とか、あるいは職人とかなんでも良いけど何か興味があるのであれば、修行できるような、本物に触れられるような環境に放り込む(ことを提案する)と思います。

③興味があれば学ベる

これは、大学の中身自体の話ですね。僕は、「大学の授業自体には価値がある」と思っている立場です。ただし、一番重要なのは「興味があれば」という枕言葉です。

本人に興味がなければ、前述のとおり大多数の大学生はダラダラします。チコちゃんに怒られるパターンです。ただ「単位を取るために」勉強するだけです。これははっきり言ってめちゃクソ意味がないと思います。知識も残らないし、別に興味もないから脳みそも喜ばないし、自発性ももてない。ただの作業になります。だから、子供がその分野に強い関心興味を持っていれば、大学は価値を発揮しますし、そうでない場合は「ほぼ学ばないよ」と思ってもらって良いと思います。

なんだかんだ言っても、大学にいる教授は(どこの、どのレベルの大学であっても)その道を何十年も突き詰めてきた専門の人です。変人です。
その人が話す講義は、興味を持って聞けば面白くないはずがなく、学べることはたくさんあるでしょう。ちなみに、僕は自分の学校はかなりサボってましたが、他の大学の授業に出てた時期もあります。歌舞伎や能の講義とか、企業の歴史とか。どんな分野であっても、学べることは確かにあります。

だから、僕の子供も高校までにすでに特定の分野に強い興味を示せば、その大学へ進めることは考えますね。あるいは、専門学校でも良いです。ただし、そうじゃない場合は、先ほど言った通り、「大学進学で時間的猶予を得て、外で色々経験させる」か、「大学以外の選択肢を考える」ですね。

以上、いつくかの観点で「大学は意味があるのか」をみてきました。

ご自身のケースに当てはめてみて、ぜひ考えてみていただけると僕も嬉しいです。そのあとの人生に大きく道が変わってくる選択だと思います。幸せな人生になることを祈っています^ ^

では、今日はこれで。また明日!

世の中は二極化していく

こんにちは。石川です。今日は投稿が遅くなりすみません。時間がずれないように今週中に朝の投稿に変えようと思います。

今回は、レストランの話です。まず今日は、大枠のお話から。

あらゆるジャンルのサービスは、それがいままでなかった新しく出てきたものであったとしても、すぐに真似する第二、第三の追従者がでてきて、更に世の中で人気になれば沢山の真似する会社が出てきます。そうしていろんな競合が出てからば、最初は「唯一」だった商品も、「よくある」商品へと変わっていきます。いわゆる、コモディティ化という現象です。そうなってくると、当然お客さんは「同じ」商品ならば安いところで買いますから、価格が下がっていくのが自然の流れです。他店が、値段を下げたら「やべ、ウチも下げなきゃ」ってなりますからね。

競合が増え過ぎれば、値段を下げて利益が減ってしまったり、お客さんを取り合ったりして、やっていけないところも出てきて潰れる店と生き残る店が出てきます。そうやって淘汰されて残っているのが現在の状態です。牛丼チェーンには吉野家、すき家、松屋などがあるように、ハンバーガー、定食屋などにもあるゆるチェーン店があります。パンケーキやチーズフォンデュなども同じで、いまでは多くの店舗で食べることができると思います。

そういったことを、長い時間軸で考えると世の中は、二極化していくと思っています。それは、①安い店と②高い店、の二つです。(ただしこれは、「競争が激しい」ことが前提になるので、住んでる人が多い都市圏で特にそうなるという話です)

さきほども言いましたが、大体の商品は真似されます。そして、同じモノであれば消費者は安い方が良いです。つまり、長期的に「唯一」であることを保てないお店以外は、基本的に値段が安くなっていきます。「どれだけコストを抑えて早く効率的に商品を提供できるか」が重要で、そのシステムを構築できるかの勝負です。チェーン店がまさにそれですね。

一方で、素材をめちゃくちゃ良いやつ使うとか、カリスマシェフがやってるとか、立地や内装が他には真似できないほどオシャレ、などの要因で、高級店として商売をしてるお店もあります。他には真似されない何かを持っていて、競争とはそれほど関係ないので値段の下方圧力がかかることはありません。自分たちが売りたい値段をつけることができます。

自分でお店をやるのであれば、このどっちに行くんだということはよく認識しておいた方が良いかと思います。

今日は風邪気味なので、この辺で失礼します。また明日投ます!

 

クロちゃん事件から見る現代文化と新しいビジネスの意味

こんにちは。石川です。
今日は一番仲良くしてる友達カップルが東京からわざわざ会いにきてくれました。
とんでもなく感動でした。あったかい人って良いですね。

毎日面白いコンテンツを届けようと思って書いてますが、最近はゆったり生活なので内容が偏ってすみませんです。家族の状況が落ち着いたら、せっせと走り出したいと思うところです。

さて、昨日のニュースで知ってる方もいるかもしれませんが、クロちゃんの事件が世の中を騒がせました。

知らない方のために説明すると、
水曜日のダウンタウンという番組内で、
「としまえんのオリにクロちゃんを閉じ込める」という企画が発表されて番組が終わる→SNSで拡散される→深夜にも関わらず多くの人が殺到→危険かつ騒音状態になり警察が出動。
という事件だったみたいです。

そのテレビ番組を僕は見ていなかったので中身は置いておくとして、「なぜそんなことに集まるのか」が気になりました。

深夜の1時や2時、しかも平日なので次の日は学校も仕事もある。ある意味、凄まじい行動力で、若者ばかりだったようですが、何がそこまで彼らを駆り立てるのか。

まあ当たり前の答えではあるのですが、SNSのせいだと思います。
深夜にとしまえんに訪れた若者たちは、単にクロちゃんが見たかったわけでも、ましてやクロちゃんの熱烈なファンなわけでもなく、得たい感情は、「そこに行ってる自分イケてる」だと思います。

つまり、盛りがってるもの、目立てるものであれば別になんでも良い。それがあそこに行ってる若者の正体だと思います。

おそらく、現場に行って写真や動画を撮っていなかった若者はほぼいないはずです。撮るために行く。写真を撮って、SNSに投稿することで高揚感を得る。
ハロウィンだってこの文脈です。昨日行ってた人は、多分ハロウィンにも行ってるはずです。

僕がおじさんなだけなのかもしれませんが、感想としては「なんて刹那的な幸福を追い求めているだろう」と思います。

ああゆうイベント自体も超一過性だし、その幸福も持続はしないはずです(「思い出」にはならないでしょー)

注目されたい、目立ちたい、称賛を得たい、
「周りの中でどう見られるか」を重要な指標として追い求める人生に、どこか虚しさを感じてしまいます。

今小中高生の人たち(SNSネイティブの人たち)が、これから大人になって、社会で働いて行く時にどう生きて行くんだろうかがすごく気になりました。

これは個人的な思想ですが、周りの目なんか気にしていると、常に実態のないまやかしを追い続けるようなものなので、自分の世界観をつくって、それを追い求める方が幸福感は断然高いと思っています。

こうなると思うのは、ファイスブック、ツイッター、インスタグラムなどは「あった方が良かったのだろうか?」ということです。

結果として今の世の中になっているわけですが、
新しいサービスは、世の中に埋め込まれ、時には開発者が想定していない反応も起こしながら新しい生活が作られていきます。人々の暮らしがつくられていく、社会の文化がつくられていく。新しいサービスを世の中に産み、埋め込むということは、そういうことだと思います。そして、忘れてならないのは、それはパンドラの箱であるということです。一度世の中に埋め込まれたら、元の状態に戻ることはありませんから。

SNSがある世の中と、SNSがなかった世の中。
受けてる恩恵もたくさんあるし、今回の騒動のように危険性もあるよね、という話でした。

世の中に振り回されずに、自分の人生を生きるには両面を見ていかなきゃいけないです。特にこれだけ新しいサービスが次々と産まれる時代ですから。
そして、事業を生み出す側にいる人間は、新しい文化をつくっているんだという認識を持って新しい社会を構想していくことが、人々のしあわせに繋がると思います。どれだけでかくなるか、成長するか、追うのはそういった規模の指標ではなく、幸福の指標であるべきだと僕は思います。

てことで、今日はクロちゃん事件からみる現代文化と新しいビジネスの意味でした。
また明日!

ロボットと人間のはなし

こんにちは。石川です。
今日はクリスマスですが相変わらず付き添いで病院にいます。病院勤務の人はクリスマスも正月も関係ないので大変やなーと思います。世間の病院勤務のみなさまいつもありがとうございます。
さて、昨日はたまたま情熱大陸を見ました。
どうしても気になるテーマでしたので紹介します。
昨日はロボットエンジニアの林要さんでした。あのペッパーくんを開発した超一流のエンジニアさんです。
林さんが、ペッパーくんを開発した後はGROOVE Xという会社を設立して、それはそれは莫大な資金調達をしていました。グルーブエックスは、超優秀な人ばかりが集まっている天才集団なのかなと認識しています。
名前は知っていたのですが、この会社が実際に何をつくっているのかは全然知らなかったので昨日の番組内容は非常に興味深かったです。超面白かった。
彼らが今つくっているのは、ラボットと呼ばれるロボットです。
このロボットは、何もしないそうです。
いままでの文脈とは全く異なる思想で作られている印象です。
ロボットというのは、基本的には人間社会において自動化を進めるためのものです。
作業をよりラクにしてるくれる、より高速で、より優れた質で作業をやってくれるのがロボットです。
ロボットがあることによって、私たちの生活はより便利になるか、よりラクになります。
「痛みがなくなっていく」という表現が適切かもしれません。人間社会は、ロボットによって段々と無痛文明へと向かっていきます。
ところが、GROOVE Xが作っているラボットは、その文脈とはまるで違います。
ラボットは、何もしない。ただ側にいるロボットです。幸せになるためのロボットです。
便利にするためでも、ラクにするためのものでもありません。
ペットの感覚に近いかもしれません。いつもそばにいてくれる存在。愛着をもつ家族のような存在。
ラボットは、生き物に近いような感覚で開発されているらしいです。
体温があったり、
呼びかけたらこっちを向いてくれたり、
いろんな表情をしたり、
人見知りをしたりもするそうです。
転んだら自分では起き上がれないので、起こしてあげなきゃいけないんだって。

ふふ、面白いですねー。
本当にめちゃくちゃ高レベルの技術力で作られてるんだなと思います。すごい。
こういうペットに近いようなロボットや小型のコミュニケーションロボットは昨今の日本ではたくさん作られています。
これは、日本特有の動きなのだとも関係者から聞いたことがあります。(本当かどうかわかりません)
海外では、日本ほどはベット型ロボット、家族型ロボットは存在しないそうです。
アニメの影響、可愛い人型ロボットドラえもんとか鉄腕アトムとかの影響なんですかねw。冗談です。
ビジネス的に、世の中の人が、ただ側にいてくれるラボットのようなものを求めているのか、求めていないのかは正直わかりません。
僕は必要ないなとは思いますが、日本の超トッププレイヤーである林さんが事業を進めていて、莫大な投資も集めていることから、ラボットが世の中に埋め込まれる未来も近い将来ありえるとは思います。
「問題」は発明されるものであって、新しい市場は誰かの手によって作られていきます。
側にいる存在なしでは寂しく感じて、一家に一台ラボットが飼われる(買われる?)時代もくるかもしれません。
また、一つの新しい目立つ技術というのが、波紋のように周りに影響を及ぼすのが世の常です。
GROOVE Xの新しい動きによって、「痛みをなくすための」ロボットではなく、「小さな願い事を叶えるための」ロボットが次々と生まれていくこともあるでしょう。
ロボットの性質が変わっていくわけです。
変化していくこと自体は、とてもワクワクしますし、日本独自の流れなのであればとても面白いことだなと思います。
一方で、昨日の情熱大陸をみながら「んー」という風に頭でぐるぐるしました。
ここから先は完全に僕個人の感想です。
そして、ビジネスうんぬんというより人間としての話です。
愛着の持てる家族型ロボット、ラボット。
実際にさわりもせずにあれこれ言うのは筋違いだなとは思いつつも、僕はあまり美しいものではないと思います。
というのも、生物が根本的な生きる過程からは外れているモノだと思うからです。
どれだけ生き物に寄せようと、それはモノです。
自然にまばたきするように、
体温を感じるように、
人見知りをするように、
手間がかかるように、設計されているわけです。
そこに決定的な一線があります。
赤ちゃんが生まれ、だんだん大きくなり、大人になって自分の子を産み、子を育て、年寄りになって、死んでいく。
生き物は、この過程を経ることが自然だと思います。地球が生まれて以来、ずーっと行われて来た生物のもっとも根源的な過程です。
今は結婚しない選択もある時代ですから、自分の子を持って、育てるという過程がない人もいるかも思いますが、やがて死んでいきます。
最初と最後はみんな同じです。致死率100%です。そして、いつどういう運命で生まれ、死んでいくかは誰にも分かりません。
ペットも同じだと思います。同じ生き物です。
ここに何か決定的に大事なことがあって、家族の愛着というのはそういった生命の自然の過程の中で生まれていくものなんじゃないかと思うわけです。
人が生きると書いて人生ですから、この基本的な生きる過程が抜けてしまっては、もはや人生ではないと思うわけです。やっぱり生きていて人間の人生になるし、ペットも生きていてこその生物です。
昨日の番組の中でたしか、ラボットは「一人家族が増えるような感覚」、といったような言葉を発してしたような気がしますが、プログラムされた人工物がただ側にいることには全く美しさを感じないのです。家族の愛着とは決定的に違うと思う。
手間がかかるというレベルではなく、家族はめんどくさいものだと思います。ペットもそうだと思います。
けんかもするし、面倒みなきゃいけないし、病気にもなるし、相手のことが分からず理解し合えないこともあるし。そして、死ぬし。
でも、一緒にいてたまらなく嬉しい瞬間もあります。死んでしまった時にこれまで経験したことのない悲しさが襲います。
クリスマスに子供にプレゼントをあげている光景、余命宣告されて残された時間を家族と戦う光景、赤ちゃんが生まれた時の光景、カップルが喧嘩している光景、ペットの猫をやさしく撫でている光景、ペットの犬が病気になり最後の瞬間をみんなで看取っている光景。
その逐一が、僕には美しくうつります。
それがなぜなのか?
それはよくわかりません。僕の中にある主観的な価値観でしかないので、言葉で言い表すのは簡単ではないのですが、自然的な日常の姿に、そのはかなさに、僕は美しさを感じます。
そうあるべくして作られたモノに、それと同じ美しさを感じることはありません。
人工物に対して美しいなと思うことはもちろんあります。スペインのサグラダファミリアなんかはとても美しい。建築美を追求した人間の結晶だと思います。その努力と探究心と建築家の美学に心を奪われます。今回のラボットに感じる美しさも、どちらかというとこれと同じ種の感動です。
技術としての高さ、技術者たちの途方も無いような苦労。まだないものを創っていく挑戦。それ自体はとても素晴らしいことだと思いますが、建築物に感じるのと同じ美しさです。家族に感じる美しさではありません。
ですので、ラボットを「家族」と呼ぶのには僕にとってはあまりにも違和感があります。自分の子供には絶対に買い与えないと思います。
たとえ、家族型ロボットが日本に普及される未来が来たとしても、そのあと揺り戻しがきて、
「やっぱり家族っていいよね、ペットっていいよね」
となって、家族を持つ人が増える、人との付き合いが増える、実際の生き物をペットに飼う人が増える、という流れが僕が考える一番美しい未来かなと思いました。
まあ、ぼくはそれが良いと思います!という話ですので実際どうなるかはわかりませんけどね。
てなことで、今日はロボットと人間の話でした。
メリークリスマス!家族、友達、もしくはペットとハッピーなクリスマスをお過ごしください!

また明日。