恵まれた立場にいる人がどんなことをしなければいけないのか?

こんにちは。石川大貴です。

今日は、世の中についてのお話です。

この世には「恵まれた人」と「恵まれない人」がいる

まずは、恵まれた立場にいる人と、恵まれない立場にいる人の話。

早い話が恵まれた人というのは、お金持ちのことです。

世の中は、平等ではありません。

みんなが、違う場所、違う家族のもとに、違った条件で生まれてきます。

正直にいうと、筆者の場合は、だいぶ恵まれた家庭環境に生まれた方だと思います。

何不自由なく育てられたし、心理的にも経済的にも、まあ余裕がある環境の中で育てていただきました。そのこと自体は、家族に、環境にとても感謝しています。

ともすると、
恵まれた環境にいる人の中には、勘違いをする人もいるように思います。

僕は、フィリピンに住んでいた時があります。

夜遊びスポットの観光ガイドとしてあちこち回っていたこともあるので、「勘違いをしている人(=外国人観光客)」を図らずもたくさん見てきました。

現地の人を見下し、横柄な態度をとる外国人。

ごく一般的な人であっても、日本人はフィリピンへ行くと、相対的にかなり金持ち、ということになります。つまり「恵まれた立場」になります。

現実的にフィリピン現地の中間層や下位層の生活に比べると、かなり自由度が高いことになります。

良いものを食べ、良い服や靴を買うことができる。
なんでも買うことができ、色々な場所へ行き、色々なサービスを購入できる。

だから、リタイア後にフィリピンへ移住して、年金で生活している人も沢山います。

ちなみに一例を挙げると、
現地のショッピングモールで働いていた10代後半のフィリピン人たちと外へ遊びに行ったら、
「タクシーに生まれて初めて乗った」と言われました(当然支払いは日本人である僕です)

それが、現地の普通の生活水準です。

恵まれた立場にいること。
それによる「優越感」みたいなものが、僕自身の中にはゼロだったのか?と問われれば、それは時々感じていたように思います。

特に向こうへ行った当初は、それが強かったのかもしれません。正直なところ、「金持ちになってなんでもできる」という感覚に、ものすごく楽しさを感じていたように思います。

しかし、冷静に考えるとなんとも薄っぺらい、それが勘違いでしかない、ということに気がつくのにはそう時間はかかりませんでした。

現地の生活をディープに見たことや、横柄な日本人や外国人観光客を沢山見ているうちに、僕の「勘違い」は薄れていったのだと思います。

僕は、途上国で、貧困層の暮らしぶりや、
過酷な環境で育ってきた人の人間性に深く、触れてきました。

彼らの生き方に対して、「到底理解ができない」「教育を受けていないから仕方がない」なんて、上から目線で見てしまったり、ほんの一面だけを見てしまうこともありました。

でも、僕は世の中というものを、何もわかっちゃいなかったわけです。

だいぶ話が横道にそれてしまいましたが、
世の中には「恵まれた立場にいる人」と「恵まれない立場にいる人」が確実にいるんだよ、ということです。

恵まれた/恵まれない環境と、仕事について

ここで、生まれた環境と、仕事の話をします。

身近なことで考えてみましょう。

恵まれない環境にいる人、つまり、お金がない人は、生活のためになんとあろうと働かなければいけないから、必然的に仕事をします。明日食うメシ代を稼ぐために、働きます。

特に余裕がない人ほど、すぐに生活費を稼がなければいけないから、
誰でもすぐにできる肉体労働や単純労働の仕事につきやすいという傾向があります。

例えば、その対極にいるのは、わかりやすいのは医者や弁護士などです。
医者や弁護士の場合、必要な能力を身につけるまでには、多大な「費用」と「時間」と「労力」がいります。技能も資格も必要ですので。

それだけの技能があるので、社会的に信用されるし、希少価値があって、つまりは給料も高くなります。

それらの「費用」と「時間」と「労力」を払える人だけに、医者や弁護士になるチャンスがあります。

元々「才能」があるかどうかという問題の以前に、それだけの費用と時間の猶予を確保できるのかという「環境」の問題があるわけです。

金持ちの子供が、金持ちになる理由は、ちゃんとここにあります。

一方で、お金がない人に、そんな余裕は通常ありません。

ましてや、学校にもいけなくて、子供の時から働き始める人もたくさんいます。

途上国になると、小学生から働き始める子もいます。

そうした人は、すぐにお金が必要だから、すぐできる仕事について、
ゆったりと、勉強している余裕なんてありません。

勉強できる「費用と時間の猶予」がないので、すぐにつける仕事にありつくことになります。

「すぐにつける仕事」ということは、高い技能が必要なわけでもない、資格が必要なわけでもない、実績が必要なわけでもない、誰にでもできる仕事に他ならないので、それは労働プールが広く、つまりは、給料が安かったり、雇用形態が悪かったりします。

恵まれた立場にいる人は、自由があり、広い選択肢があります。
資本家になることだってできます。そうなれば、富はもっと膨らんでいきます。

恵まれない立場にいる人は、自由が少なく、選ぶ選択肢も少ない。
末端の労働者階級として生活をしていく場合が多くなる。ということになります。

世の中の「生産活動」と「消費活動」について

ここでまた話を変えて、世の中全体の仕組みについてお話します。

世の中は、「生産活動」と「消費活動」の、この二つで成り立っています。

例えば。私たちが、普段お肉を食べられるのはだれのおかげなのか??

そんなことは意識しないと思いますが、それを考えてみましょう。

私たちはお肉を購入するとき、そのプロセスとしては、顔をあわせるのはお肉屋さん(もしくはスーパーの)店員だけです。

しかし、よくよく考えてみると、そこに行き着くまでには、たくさんのプロセスを経ています。

牛を育てる人がいて、牛のえさを作る人がいて、牛のえさを運搬する人、牛を売る人、牛を殺す人、それをさばく人、どこで売るか決める人、トラックでお肉屋さんへ運ぶ人などなど、出していったらキリがありません。

その一つ一つが、いわば「生産活動」です。

そして、その裏には基本的にすべて人間の「労働」があります。

資本に、人間の労働が加わることで、様々な価値が生まれ出てきます。商品が生まれます。これが「生産活動」です。

一方で、お肉を買って食べるのは、その「生産」された商品を「消費」する行為です。

これだけ世界人口が増えて、社会が豊かになった今の世の中では、人間がオギャーと産声をあげたその瞬間から、この人間の生産-消費システムの中に組み込まれます。つまりは、資本主義です。

我々は何をするにしても「消費」をしないと生きていけないわけです。

言ってしまえば、全ての子供は20歳ぐらいになるまでは、ほぼ皆が「消費専門の」人間です。

そして、ここで大事なのですが、世の中の「生産活動」の大部分を支えているのは、汗水垂らして働いている「労働者」です。

彼らの労働がなくては、私たちの生活に普通にあるものの、ほとんどが手に入らなくなります。

なぜ、僕たちは肉が食えるのか?

それは、さっき言った生産プロセスの中で、沢山の「労働者」が汗水垂らして働いているからです。

もっと突っ込んだ話をすると、「消費活動」。こちらの方も実は、たくさんの商品を買っているのは、一般大衆の「労働者階級」です。

汗水垂らして働いたお金で、何かしら他の商品を買う。消費する。

お金持ちだけが消費をする社会では、この生産-消費システムは成り立ちません。

「資本家」がいなければ、確かに資本主義は成り立ちませんが、沢山の「労働者」もいなければ実は成立しない。

どちらもいなければ回らない。資本主義とは、そういうシステムなのです。私たちが生きているのは、そういう世の中です。

だから例えば、
日本からフィリピンへ行く若者(当時の私)。確かに、相対的にお金持ちで恵まれているのは間違いないわけですが、自由度が高いのは、家庭環境のおかげ、それ以上でもそれ以下でもありません。

日本に生まれたから、豊かな家庭に生まれたから。運が良かったから。ただそれだけ。

しかも、先述した通り、子供というのは、「消費」専門の存在です。

何も生み出していない分際(生産活動をしていない)で、「お金持ちであることに酔いしれる」なんて勘違いも甚だしいわけです。

誰のおかげで今の生活があるのか。豊かさを享受できているのか。何もわかっちゃいない、いかにバカだったかがわかります。
(ただ、ガイドをしていて沢山見ましたが、何歳になってもそういうバカな大人というのが、いっぱいます)

恵まれた人と恵まれない人の「分断」について

だからこそ思うのですが、
恵まれた環境に生まれた人が、いったい何をしなければいけないのか?

これは、人としてとても大事なテーマだと思います。

特に、日本に生まれただけで、僕たちは「大吉」を引いたようなものですからね。

「こうありたい」と願望を持ち、適切な努力をすれば、大抵のことは叶います。

現代は、社会全体としてはとても豊かになってきましたが、一方
「恵まれた立場にいる人」と「恵まれない立場にいる人」、この分断が非常に強くなってきているように感じます。

現実に格差は広がり、雇用は不安定で、立場は弱く、求められるスキルも流動的で、チャンスは少なく、希望も持ちにくい。

僕は個人的に、「資本主義」自体は、完璧ではないにせよ、素晴らしいシステムだとは思っています。

とても効率が良く、社会全体に沢山の富を生み出してくれたという事実は、歴史を見れば明らかです。格差がなければ、社会(今のような”豊かな”社会)は成り立ちません。

ただし、「分断」が大きくなり、放置しておく。これは非常に問題だと思います。

「恵まれない立場にいる人」の中には、現実に多くの問題を抱え、困っている人が大勢います。

また別の観点で見ると、社会全体を見た時の環境問題などの大きな問題が、時限爆弾のように膨らんでいる最中であること。これも、非常に大きな問題です。

「恵まれた立場にいる人」は、お金のために子供のうちから働く必要がない。勉強を妨げるものは何もない。選ぶことができる。その自由度の大きさ。

さて、恵まれた立場にいる人がどんなことをしなければいけないのか?
これは、とても大事なテーマだと思います。

みんなが違った環境で生まれて来る。

日本に生まれた人も、フィリピンに生まれた人も、自分に与えられた環境をどう活かして、どのようなことを生み出していくのか。それは、誰もに与えられている平等の条件ですが、僕には「恵まれた者としての宿命」みたいなものがどうしてもあるように思えてなりません。

最近では、学校教育のうちから、SDGsなどのトピックを目にすることも多くなってきました。よりソーシャルな課題に取り組む人も増えてきたように思います。

若者の関心が外に向かう傾向が強まっていることは、とても良いことだと思います。

「恵まれた立場にいる人」と「恵まれない立場にいる人」の間にある「分断」を埋めてくれる人。社会全体として膨らんでいる大きな課題に立ち向かう人。

そこに生きがいを見出し、かつ明晰な思考と行動力できちんと結果を出していく。
そんな人が未来に沢山出てくると幸せな世の中になるのかな、なんてことを思っています。

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