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映画ちはやふるに学ぶ-運と実力の関係性とは?

こんにちは。

皆さんは、映画「ちはやふる」をみたことがありますでしょうか?

この「ちはやふる」という映画は、「競技かるた」を題材としたマンガが原作です。

マンガも読んだことがなかったので、「競技かるた」というものに初めて触れました。

なかなか、奥が深くて興味深かったです。

さて、今回のテーマは「運と実力」

競技カルタには、”運命戦”というものが存在します。
まず競技カルタのルールをざっくりと説明します。

>最初に1対1で対峙して座る
>百人一首の100枚あるかるたのうち50枚を、自分の陣地と相手の陣地それぞれ25枚ずつ並べる。
>百人一首の歌が詠まれたらそのかるたを取る。相手の陣地から取った場合は、自分の陣地から1枚相手側に送る。
>これを何回も行い、自分の陣地のカードがゼロになったら勝ち

かるたは小さい頃にやったことがありますよね。

あれを1対1で何度も繰り返していき、先にカードがなくなった方が勝ちということですね。

それで、”運命戦”というのは、最後の2枚だけになった状態、

つまり、自分の陣地に1枚、相手の陣地に1枚の状態のことです。

この状態では、お互い自分の陣地にあるカードが詠まれた方が絶対的に有利です。
すぐそばにある方がもちろん早く手を伸ばせますからね。

この場合には、

「自分の陣地にある札が先に詠まれたら勝ち」
「相手の札が先に詠まれたら負け」

というのが常識のようです。

つまり、勝ち負けは、”運”次第。

だから「運命戦」

映画の中で描かれるのは主に団体戦です。

団体戦もあくまで勝負は1対1ですが、5人のチームでこれを競います。

団体戦最後の局面、他のメンバーは2勝2敗。

チームの勝敗は、部長太一の決戦に委ねられます。そして、太一の局面は”運命戦”にもつれ込みます。

残り2枚。

この一枚で、団体の勝ちか負けが決まります。

初め、太一は自分のカードが詠まれることを必死に祈ります。

「来い・・・来い・・・来い、来い、来い!!」

しかし、太一は今までのことを思い返すんですね。

運命戦にめっぽう弱い彼は、「自分は、神様に見放されている」と、ずっとそう思っていました。

自分は、才能もない。運もないんだと。

しかし、「それは違う」ということにふと気がつきます。

いままでずっとそう思ってきた。

でも、それで負け続けてきた。

その後、太一はなんと素振りの練習を始めます。

何回も何回も。

繰り返しますが、運命戦では勝負は運で決まるというのが常識です。

太一のこの行動は、相手の札を取りに行く、

つまり、自分の札が詠まれても相手の札が詠まれても勝ちに行く。そういう姿勢を意味します。

結果、

相手は太一の気迫とプレッシャーに押されお手つきしてしまいます。

見事、太一の勝利。

ここから非常に大事な姿勢が分かります。

運に頼る人は、”自分にできること”を最後の最後までやりません。

たとえ負けても勝敗は運のせいだと思っています。

運のせいだと思っているので、次も運が悪ければ負けます。

何も変わっていきません。まさに、これまでの太一と一緒です。

確かに、運というのは存在します。

良い時もあれば、悪い時もある。

しかし、実際はそれで勝敗が決まっているわけではありません。

あくまで”どれだけ努力したのか”で勝負は決まっていくのです。

プロギャンブラーの人がこう言っています。

「運が読める人なんて、世界中に1人もいない。」

めちゃくちゃ説得力があります。

だから、プロギャンブラーもものすごく勉強します。

何度も反省して、論理的に勉強を繰り返していきます。

「運が良い時でも、運が悪い時でも勝てる」

それがプロギャンブラーです。

そうやって、勝つ確率を上げていくのです。

運に頼る人は、プロにはなれません。

世の中で勝ち続けている人は、実力で勝負しようとし続けている人です。

本当の「グローバル人材」とは現地のルールを受容できる人である

こんにちは石川大貴です。

昨今の世の中では、「グローバル人材」という言葉が様々な所で飛び交っていますね。

筆者は、大学が外国語系の学校だったので授業でも何度もこの言葉も耳にしました。
「これからの時代、多文化を受け入れることが大切ですよ」と頻繁に出てきました。

ただしこの言葉の本当の意味を、僕は遊びの中で学びこととなりました。

筆者は、大学休学中にフィリピンに住んでいました。

フィリピンは、場所にもよりますがアジアの中では治安は悪い方に入ります。

たまたま向こうで出会った師匠がいて、僕も旅行ガイドとしてアテンドをしたりしていたので、日本人の旅行客にもたくさん会いました。フィリピンに住んでいる日本人もたくさんいます。

その中でよく聞いたのは、フィリピンの悪口を言う人でした。

「カネを取られた」

「だまされた」

「サービスが悪すぎる」

「ありえない」

怒るポイントは確かに山程あります。

筆者も住んでいたので、もちろん気持ちはよく分かります。

気持ちはよく分かりますが、「それを口に出すのはおかしいでしょ」といつも思っていました。

■それは、”僕の”ミスだった

フィリピンに滞在中、ぼくは毎晩街を歩き回っていました。

せっかく住んで、いろいろと勉強したかったので、かなりいろんな所を歩き回りました。

昼も、夜も、深夜の3時とかでも平気で毎日歩いてました。

ただし、安全だけは最大限気をつけて。なぜなら、リスクが沢山存在する国だからです。

情報だけは事前にきちんと集めて、リスクヘッジをした上で、遊びまわっていました。

しかし、何度か失敗したことがあります。

場所は、とある観光向けのバー。外国人が沢山いく所で、ナンパスポットになっている場所です。

そこで僕は睡眠薬を飲まされて48時間ぐらい目が開かない状態になりました

まあ、びっくりしましたね(笑)薬の種類はよくわからないけど本当にびっくりするぐらい効いて、よく寝ました笑。人間ってこんなに寝れるもんなんだってことが分かりました。強い睡眠薬ってすごいですね。

コトの顛末をお話しすると、このバーにはもう何回も行っていた場所でこなれた所でした。

もちろん、店で起きうるトラブルのパターンも知っていますし、回避すること、してはいけないことなんかも心得ていたつもりです。

しかし、これが良くなかった。

慣れてきた時というのが実は一番危ないんですね。

その日お姉さんとお話ししていた時に、席を移動したんですよね。

その時に一瞬だけ飲み物をもたせてしまって、その隙にポチャンと薬を入れられたって言う話です。バカみたいですが本当の話ですし、これもまあよくある常套手段です。

でもまさかでした。完全に油断しました。

結局何が言いたいかというと、

それは「完全に僕のミス」だったということです。

ここが、ポイントです。

というか、ベテランの人にも色々教えてもらって、夜な夜な自分でも歩き回っていたので分かりますが、トラブルに合っている日本人の99%は、自分で引き起こしたものなんですよね。

■現地には現地のルールがある

ちなみに、バーに限らずとも、睡眠薬をいれるというのは現地の常套手段です。

昔はタクシードライバーとかもよく使っていたと聞いたこともあります。
(でももちろん、そういうことをやるのはほんの一部ですからね。その点は勘違いしないでください。)

睡眠薬以外の手段でも、例えば、居酒屋やバーで、(向こうではお会計のレシートにサインをする形式なのですが)わざと読めないぐらい汚い数字で伝票を書いて、まずサインをさせます。
そして、いざキャッシャーで支払う時になって桁を一つ多くなってたり、実際よりも上乗せした金額だったりとか。いや違うと文句を言っても、もうサインしてしまっているので無理です。

とにかくまあ手口は本当にいろいろあります。

つまり、これが現地のやり方なんです。

睡眠薬をやる人もいれば、ガイドの振りをしてだます人もいれば、泥棒をやる人もいます。

特に、メシを食っていけるだけの仕事が足りてない国なので、お金を稼ぐためには、こういう手段を取る人も結構な割合で出てきます。

これは社会の仕組みであって、生活していくだけの労働賃金が足りていないことの必然的な結果です。

誤解を恐れずに言えば、

ある意味、これも一つの文化なんです。

現地には現地のやり方があるし、ルールがあります。

極端な話、バーで寝てたりすると、フィリピン人であってもボラれることは普通にありますからね。

それなのに日本人は、
「バーで飲み過ぎて(クスリじゃなくて普通に)居眠りしてしまった。起きたらいっぱいグラスが空いててとんでもない額を請求された。くそーフィリピンって最悪だよ」
という調子で、武勇伝まじりに、平気で悪口を言いふらすわけです。

いやいや、悪いのは自分でしょ、災いを呼び込んだのはあんただよ、と筆者は思うわけです。

それは、あくまで”あなたの失敗”ですよと。

僕の場合もそうです。

訪れたナンパバーとはそういう場所です。

そもそもそんな場所に遊びに行かなければ全部防げます。もちろんすべての飲み屋でそんなことが起きるわけでは全くありませんからね。

そこには、そこ特有のルールややり方が存在するのです。そのルールの中で遊ばなければいけないのです。

例えば、スリとかの場合とかもそうですよ。

スリに遭うのは、服装がおしゃれで目立つものだったとか、スマホが鞄から見えてたとか、そいつがアホそうでボーッとしてる顔だったからとか(うそじゃないよ)

被害にあうには、狙われるだけの理由があるからです。

って、スリの友達が言ってましたから。

彼らは、泥棒を生業としてるプロですからね。(もちろん、彼らの行為を肯定しているわけではないです。)

逆に、情報を沢山集めて、気を付けてさえいれば、治安のあまり良くない場所であっても、大抵あぶない目には遭いません。

本当に危ない場所と、行っても大丈夫な場所の線引きはもちろん必要ですが。

少なくない日本人が、何かムカつくことがあった時にそれを全部国のせいにしてしまいます。

それは、自分の国の”当たり前”をその国におしつけているからです。

そこを”日本だ”と勘違いしているからです。

この人は、相手の国のやり方やルールを理解しようとしていません。

これは、国際感覚がない人です。

僕たちはあくまで”よそ者”です。

その国に行って、

”遊ばせてもらっている”

”ビジネスをさせてもらっている”

そういう感覚が絶対的に必要なんです。これはものすごく重要です。

そうでなければ、遊びでもビジネスでも痛い目に合います。

まず自分の国の”当たり前”を当てはめずに現地のやり方やルールを受け入れようとする姿勢が必要です。

「郷に入れば郷に従え」とはよく言ったものですが、果たしてその深淵を理解している人はどれだけいるでしょうか?

そんなの知っているよと思うかもしれませんが、これが意外と難しいのです。

筆者は外国語系の大学にいましたが、海外ローカルに長期間溶け込み、失敗を重ねて、睡眠薬で眠らされて初めて学びました。

「多文化を受け入れること」の本当の意味とは、そういうことなのです。

機会損失の考え方で今日を特別に生きる

私の趣味の一つは映画です。
映画からもいろいろと学べることがあるので面白いです。

「About time」という映画はご覧になったことはありますでしょうか?

この「About time」という映画は、SFラブストーリーです。

主人公は、なんとタイムトラベルができちゃうという何ともありきたりな設定。

”If I had ~ ”(もし~だったら)
英語でいう仮定法が、超能力によって現実にできちゃう、というお話ですね。

自分の特殊能力に気づいた主人公は、最初ビックリしますがその能力の凄さに飛んで喜びます。

何かうまくいかないことがあっては、過去に戻り現実をやり直していきます。

忘れ物をして失敗した。

女の子とのデートでミスをした。

なんだって過去に戻ればへっちゃらです。

はい、ベタなストーリーです。

しかしある日、主人公は焦ります。

それはなぜかというと、
”パーフェクトな未来”を手に入れられないことに気づいてしまったからです。

事故に遭った友達を過去に行って救ったとしても、

違うタイミングで結局事故にあったり、

もしくは、他の誰かが事故に遭ったり・・・

こっちを手に入れたら、今度はあっちを失う。

過去をどういじくっても、都合のよい現実だけにはならないことに気づいたのです。

ここで考えたいのは、「機会損失」という考え方。

機会損失とは、”もしそれをしていたら得られていたであろう効用”のことを言います。

例えば、

今わたしが、大学の授業に出ているとします。

でも、もしそれを休んでその時間をバイトに費やしていたら時給1000円のお金が手に入ったことになります。

つまり授業に出ていることで、この時給1000円を得られたかもしれないという、
そのチャンスを失っているわけです。

これが機会損失です。

この機会損失という考え方は、人生を豊かにする上で知っておくべき考え方です。

なぜなら、いいかげんな判断をしないようになるからです。

人生は、無数の判断の連続です。

時間の過ごし方をどうするのか、

お金を何に使うのか、

どこの会社に就職するのか、

仕事を転職するのか、

どんな判断にでも、必ず機会損失は存在します。

残念ながら、機会損失は通常目に見えないので、多くの場合見逃しがちです。

Aという判断をした場合に失うモノを考えることが機会損失です。

仮に、今月余分に使えるお金が5万円あるとします。

街を歩いている時にお気に入りのブランドで、最高に好みの5万円のコートを見つけました。

この時僕は、もしその5万円があったら他に何ができるか(つまり、どんなチャンスを失うのか)を考えます。

そのお金をもし勉強代に使えば、本が30冊は買えます。

あるいは、どこか旅行に行って様々な体験をすることができます。

今の僕の状況であれば、服は買わずに、即決で本を買うことを選びます。

より成長できることが今の自分にとっては大事だからです。

機会損失を考えるということは、その判断を大事にするということです。

別の例も挙げます。

僕がいつも考えていたのは飲み会に誘われた時です。(当記事を書いたのは学生の時です。)

もちろん楽しいことは大好きです。

僕も運動部だったので、人と盛り上がるのはどちらかと言えば好きなタイプです。

しかし、飲み会に行けば最低でも2時間は消えます。

お酒を飲めばその後の時間も、ほぼ間違いなく消えます。

この2時間があったら、本の1冊でも2冊でも読めます。

機会損失があまりに大きいので、僕は飲み会には行きません。

(ちなみに今は、そのおかげで僕には友達がいません笑。僕は楽しい時間や、ネットワークを得る機会を失っていたとも言えます)

機会損失を考えるということは、その瞬間を大事にするということです。

機会損失を考えると、自分の中に判断基準ができあがってきます。

判断基準ができれば、「何を手に入れて何を捨てるのか」

つまり、「どんな人生を歩むのか」が明確になってきます。

映画の中で主人公は最後、タイムトラベルを一切しなくなります。

それは、”今日は一度しか来ない”ということを誰よりも身をもって知ったからです。

そして、次のことを受け入れたからです。

「どんな選択にも、得られるものもあれば、失うものもある」

人生はいろいろです。

楽しいこと、嬉しいこともあれば、悲しい時や、つらい時もあります。

すべての瞬間、一つ一つの瞬間が人生をつくっていきます。

もし過去に戻ってやり直すことができたら、そんなつまらない人生はありません。

すべての判断を”特別な選択”のようにして生きること

機会損失を考えて、

一瞬一瞬を、1日1日を大事にするから人生はおもしろくなるのです。


中高生に伝えたい-私が国立大を中退した理由

筆者は、今年(2014年)に四年制の国立大学を中退しています。
大学は浪人してから入ったので、偏差値もそこそこ高い学校です。ずっと休学していたので7年間は、大学に籍を置いていたことになります。4年生でした。

私は、なぜ大学を中退したのか?

「これからの生き方を考える」にあたり、いま現在高校生や大学生の方に何か一部でも参考になれば幸いです。

■「Just go with flow」な人生

結論となる、今回伝えたいメッセージを先に述べておきます。

「生き方は”選択”できる。人生のオールは自分の手で握り、自分の意志で漕いでいけ」

それでは、説明していきます。

いま思い起こせば、筆者は21歳頃までは何も考えずに生きていたような感覚があります。もう少し別な時間の使い方をしていれば・・・と、後悔に苛まれます。

少しだけ私の歴史を振り返ってみます。

まず、第一の転機となったのは、浪人時代のことでした。
浪人生というのは、世の中の立場でいえば、高校生でも、大学生でも、社会人でもない、なんとも宙ぶらりんな存在です。

時間にも余裕があったので(寮と学校の往復しかしない毎日でしたので…)、客観的に世の中を観て、ぼ〜っと物思いにふける期間があったことは私の人生にとって、大変にプラスになることでした。

そこで発見した一つが、「ほとんどの人間が流れに身を任せて生きているのではないか」という違和感。

浪人を経て、筆者は国立大学に入学しますが、やはり、その観察は間違っていなかったように思われます。

これは大変残念なことですが、日本の大学では、本気で熱中して勉学している学生は確実に少数派です。

かと言って何か他のことに熱中しているのかと言えば、それもそう多くはないように見受けられる。

では、多くの学生は何をしているのか?

乱暴な言い方をすれば、「ただ時間が過ぎる毎日の繰り返し」です。

単位を取るために授業に出て、サークルに入って、友達を作って、バイトでお金を貯めて、飲み会に明け暮れ、恋人と思い出をつくる。

そこにいつも付きまとう枕詞は、「なんとなく」という言葉です。

そもそも大学という進路を選んだ理由も、みんな行っているから「なんとなく」です。将来の選択を先延ばしにするためです。

そうしてやがて、就職活動の時期は否応なしにやって来ます。そこで初めて、本気でやりたいことを考え始める。初めて自分と向き合う時間。核心的な答えが見つからないまま、就職活動という戦場を駆け巡って行きます。そうして、たまたま受かった就職先へと労働力を売りに行く。

と、多くの学生はこんな感じだろうと思います。

いったい、この大学生活のどこに自分の意思があるのか?

ただただ川の流れに身を任せるように、どんぶらこと流されて毎日を生きていく。私から言わせれば、惰性的で、享楽的な人生と言わざるを得ません。

本気でやりたいことや、自分の生き方を真剣に考えている人は本当に少ない。
筆者は、このように考えています。

「自我に目覚めて初めて、人生のスタートラインに立つ」

日本の大学生は、はっきり言って全然おもしろくないです。

「just go with flow」

流されて生きる人生そのものだと思います。

■自我に目覚める旅へ

筆者の話に戻ります。

第二の転換点となったのは、フィリピンへの旅でした。

かくいう私も、大学入学後は惰性的な生活を送っていました。「そうなってしまった」と表現するのが正しいかもしれません。

人間の意思とは、砂のようにもろいものです。
「よし、こんな山を作るぞ!」と決意し、積み上げたとしてもすぐにサラサラと崩れ落ちる。

ただ幸いなことに「私は何をやりたいのだろう」ということだけはずっと考えていました。

筆者は、大学で部活を引退した後に、フィリピンへ行き長期滞在しました。
理由は、貧困問題にぼんやりと興味があったからです。当時は、机上の学問に意味はないと考えており(今となっては、とんだ誤解でした)、現場で体験して学びたいと考えたからです。

現地にいる時、1年間フィールドワークをしていました。昼も夜もひたすらに動き回り、現場を学ぶという姿勢を貫きました。そして死ぬほど遊びました。

■人生が決まった瞬間

動き回っている中で、私はとある原体験を得ました。私にとってはあまりに衝撃的な出来事でした。

それがあった瞬間、「貧困とは一体なんなのか?」という問いの核心に少しだけ迫ることができたような気がします。私の中で、一瞬で世の中の景色が変わってしまったのです。

私は、人生の中で何をやりたいのかをずっと考えていました。
なんとなく貧困問題に興味を持ち、フィリピンに来ました。
そして一つの原体験に巡りあい、一つの「志」を手にしました。

その出来事があってから心に誓いを立てたのです。
なんとかしなければいけない。
世の中にこんな事があってはいけない。

この人たちのためなら自分の命を懸けられると。

私の中に一本の太い軸ができました。
それは、何があっても決して倒れることのない”ブレない軸”です。
この軸が成長し大きな実をつけるのか、それとも枯れて終わってしまうのか、それはこれからの人生次第で決まってくるでしょう。

しかし、私の行動基準全てが、この一本の軸に集約されます。
自分の人生の時間をそのために使っていこうと思ったのです。

■想いだけでは世の中は変えられない

貧困問題は、人類がずっと解決できていない問題です。
必要とされているのにずっと問題が残っているということは、それだけ複雑で難題ということを意味します。

超長期スパンで考えている(きっと筆者が生きているうちには解決できないと思う)ので、今でもひたすら自己否定を続け、修行し、まずは土俵に立てるだけの人間性を育てているつもりです。

他人の人生に大きく影響を与えるということは、単なる自分の思い付きでやるにはリスクが大きい、責任の伴うことである、と筆者は考えています。

それに、そもそも好きなことや、やりたいことを始める前には「余裕」が必要です。
「余裕」とは、「自分(と家族)がメシを食っていける」ということです。

これは人類の歴史を振り返ると明らかですが、余裕がないことにはコントローバブルな人生を歩むことは大変難しい。これはいち個人でも同じです。

とは言え、今の日本では一生懸命に働いて労働力を提供しさえすれば、生きていく分の賃金を得ることはできます。生活するコストも資本主義のおかげで下がっています。

そして、その後は自分の世界観を創ること。
なぜなら、世の中には、オセロのように白黒はっきりとつけられるような絶対的な物差しは存在しないからです。

美しいと思う世界、理想とする世界、こうなったら素敵だなと描く未来。
ただそれがあるだけ。つまり、全ては主観です。だから、考えに考え抜いて、本当に腹落ちして、自分の世界観を確立しないことには、「世のため人のため」なんてありえないのです。

これらの作業をすることが、先なのかな。筆者はそう考えています。

そして、闘えるだけの圧倒的な実力も必要です。
全ての経験を栄養にしていく。できることを増やしていく。それがいま私がやっていることです。20代なんて、無知の若造ですから。

一方で、確実に信じていることもあります。

それは、後100年以内には「貧困のない世界」は絶対に実現できる、ということです。

行き着いた資本主義の中で見えてくる、新しい形の社会システム。
お金の機能が今後どのように姿形を変えていくのか?
インターネットの行き着く先の未来はどこにあるのか?
人口知能・AIはどのように世界を変えていくのか?

人類の歴史20万年の中で、いまが最も変化している時代です。
これは、歴史や教養を勉強した人だけが見ることのできる特権です。今の時代は本当にドラマティックなのです。

可能性が無限に広がる時代です。
私は、残りの人生をかけて、何かしらの歯車を世界に仕掛けたい、その一端を担いたいと考えています。

■何に対して価値(幸せ)を感じるのか?

筆者は、「自分の生き方」だけは、小さい頃からずっと見つめていた気がします。
そうして生きてきた中で一つわかったことがあります。

「私は大きな目標を持ちそれを達成していくことに最上の幸せを感じる。」

試行錯誤をしてきて、少ないながらもいくつかの経験をさせて頂いて、腹落ちしてきた言葉です。自分に何が向いているかも段々とわかってきました。
目標が高ければ高いほど、努力をすればするほど、そして結果が出るほど、私はワクワクしました。

いまは、フィリピンでの原体験がキッカケとなり、貧困の解決が目標となった。ただそれだけの話です。これまで大事にしてきた「価値観」の単なる延長線上にあります。

そして、私が大学を辞めた理由はここにあります。

このゴールを達成するためには、時間の生産性を最大限に高める生き方をするのがマストになります。それは具体的には二つの問いに分解できます。

「何にどれだけの時間を配分するか?」
「どれだけの密度で時間を過ごすか?」

それらを考えた時に、大学に残って勉強することは私にとって最良の選択肢ではありませんでした。時間がもったいない。
周りにだいぶ反対されましたが、自分の価値観に沿って考えたら、大学に残る方が良い理由は何もありませんでした。1秒も無駄にできない、とそう思っていました。

■今後いろいろな生き方をする人間が増える

時代の流れを見ても、今後いろいろな行き方をする人は確実に増えていきます。
しかも、この流れは急速に進むはずです。

生活が豊かになっていることも大きいですが、
それよりも環境が変わりすぎて選択肢が多様化していることが一番大きいでしょう。

インターネットとスマホの登場により、世の中は劇的に変化しています。
あらゆる業界を再編させ、我々の生き方にも大きな影響を及ぼしています。
技術革新により、今までになかった仕事や働き方もどんどん生まれています。

人間がやりたがらない仕事や、効率の悪い仕事は、すべてロボットやAIがやってくれる時代がきます。おそらく数十年後になるかと思いますが、どこかでティッピングポイントを迎えたらベーシックインカム(国民全員にほぼ無条件で生活費を支給する)的な制度も機能するようになるはずです。

「生き方」を選べる環境が、どんどん整いつつあります。

「自由」と「どうやってメシを食っていくのか」という課題は、切り離せない問題ではあります。現実問題として、生活していくだけでもそう簡単ではないと思います。

しかし、必ずしも”スタンダードな道”を選ぶことが一番ではないことに気づくべきです。

■大学も変化していく

戦後70年を迎えて、大学の役割も岐路を迎えつつあります。

日本の大学という制度は、そもそも国が作った仕組みです。
余談ですが、もともとのヨーロッパでの大学の起源はそうではありません。
日本は、”できる”人材を大量生産する必要がある時代に、大学という仕組みが輸入されました。その起源は全く異なります。

定められた予定調和の中を、事なかれ主義的にうまくやり抜く人材。
与えられた課題を、とことん効率的にこなしていく優秀な人材。

戦後の日本では、みんなが貧しかったので、みんなが一つのゴールに向かう時代でした。つまりは、成長時代です。
「みんなで一つ」のゴールに向かって走れるように、日本の大学は”サラリーマン養成機関”として機能してきたわけです。

資本家や経営層が作り上げたシステムのいち部品となり、効率的に、生産性高く、手足と頭を動かせる人材が大量生産されていたのです。

しかし、これからの時代は違う。
先人のおかげで日本はすでに豊かになり、次のステージに入ってきています。

残念ながら、いまだに時代錯誤に囚われている大学がほとんどであり、そこに青年期の4年間を費やすのは、むしろリスクにもなりうる。常識という幻想に囚われても、そこに実態はないこともあります。

(一応、誤解を招かないように添えておきますが、大学自体は、”熱中して勉強するならば”価値のある場所だとは思います。各専門のプロフェッショナルが集まっているので、知識を得る目的ならば、あれほど面白い場所はないです。筆者も、興味のある授業は他大学にまで行っていたので。)

世の中の歯車はカチカチと音を立てて、仕組みが生まれ変わっている真っ最中です。
大学や働き方の仕組みが大きく変革していくのもタイミングの問題かと思います。

■君のしあわせは何か?

何に対して価値(幸せ)を感じるのかは、人によって全く異なります。
価値観は、人それぞれです。

筆者が問題提起したいのは、何も考えないことの損失です。
「Just go with flowな人生でも良いじゃないか」と言う人もいます。ゆったり生きたいのだ!と。これも、全然OKだと思います。どう生きるかは、人の好き勝手です。

しかし、ろくに何も考えもせずにそう言っているのならば、それは大問題かもしれません。
それは、単なる思考の放棄と言えます。

就活の時期が来て始めて、将来を本気で考え始める大学生…。

もし、その勢いのまま最後まで行ってしまったら?
心の奥どこかで何かがくすぶりつつも数十年のサラリーマン生活を勤め上げ、病床のベットで死ぬ時が来て、俺の人生私の人生はこれで良かったのか、と考えるのでしょうか?

仮にも「もっとああしておけば良かったなぁ・・」と全然違う人生を羨んでも、もう取り返しはつかないのですから。

まずは孤独になって考える時間を意図的に作ることです。
みんなと同じようにとりあえず大学に行って、スキマ時間があれば、無意識にスマホをいじる。…なんてアホなのかと思います。時間がもったいなすぎます。

そして、なんでも良いので思考量と行動量を増やすことです。
なぜなら、人間はやったことがないことに対してはいくら考えても分からないからです。
日本の就活にミスマッチが起き続けている原因はここにあります。働いたことがないことに対して、自分が向いてるのか、向いていないのかなんて、いくら情報を集めた所で分かりません。

幸せ観の全ては経験からしか生まれません。
行動しない限りは何も視えてこないのです。
乱暴な言い方をすれば、「考える。動く。考える。」これの繰り返しです。もうこれが全てです。

■この時代に生を受けた者として、どう生きるべきか

 

生まれる時代や場所によって、人の人生は大きく左右されます。
とんでもない「宿命」を背負って生きている人が今の世の中にも大勢いるのです

「貧困」とは、選択肢が極端に狭められることです。

我々は、日本人として生まれただけで大吉を引いたようなものです。
これは有り難いこと。そう思うべきです。国内でも大きな格差があるのは十分承知の上で述べますが、日本に生まれたのであればいくらでもチャンスはあります。

せっかくこのような形で生を受けたのに、自分で人生のオールを握らないなんて、そんなバカな話はないと思います。

これがもし大昔だったら、「何も考えない」ことはむしろ幸せだったかもしれない。
なぜなら人類のほとんどの歴史を通して、人為的な力では、どうにもならないことがあまりにも多かったからです。

でも、今の時代はそうじゃない。

チャンスは、見ようとしてないだけで山のように転がっていますし、実際に行きたいと思えばそこに通ずる道は存在している。

こんな多様で面白い時代だからこそ、可能性は無限に広がっていくと信じています。なんでもできますよ。

生きたいように生きなければ、命がもったいないです。

逆に言えば、
これからの時代は、幸せの価値観を何も考えない人は、人間としての生命力を失っていくかもしれません。

世の中は、どんどん便利で快適な方向へ進化しています。
経済、つまりビジネスの本質というのは、「人間の欲求に迎合していくこと」だからです。
資本主義に乗る限り、基本的に人間が欲しがるものは何もかも満たされていきます。

次世代を席巻するであろう技術、IOT、ロボット、AI、これらはパンドラの箱であって、たとえ倫理観を置き去りにしたとしても急激に進んでいくでしょう。

一時的な代償となるのは、”人間らしさ”かもしれません。
それが意味するのは、「極限までダラダラして何も考えずに生きることが容易になる世界」が、到来しつつあるかもしれないということです。

それは、もはや人間と言えるのでしょうか?ただ存在しているだけならば、それはただの肉塊ではないでしょうか。

だからこそ、今の時代に求めるべきは自分の価値観であり、しあわせを考えるということなのだと思います。
最後に繰り返しとなりますが、

「生き方は”選択”できる。人生のオールは自分の手で握り、自分の意志で漕いでいけ」

一人一人がそうなれば、世の中はきっと美しい世界になると思っています。

キャリアを考えることは、自分の適材適所を知ること

今日は、キャリアのお話。

筆者は、昔バスケットを12年やっていました。

小学校から始めて大学でも部長を務めました。

10年以上やってみて気づいたことの一つは、

「どう考えても人には向き不向きが存在する」ということです。

これは特にキャプテンとしてチームのみんなを見てきた中で感じたことです。

個々のメンバーの努力量は、それぞれ全然違います。

たとえ同じような努力量であっても、メンバーによって力にものすごく差が出ます。

個々の得意とするボジション、能力も全然違います。

マネージャーに目を向けても一緒で、仕事の仕方は全然違ってきます。

この世に同じ人間というのは一人としていません。

生まれ持った特徴や性格、育ってきた環境、親から言われてきた言葉、勉強してきたインプット、これまでやった経験、出会った人、持っているスキル、考え方、皆それぞれ違っています。

当然のことですが、あらゆる要素が人には付きまとっていて、それらは人によって異なる。

そのため、その人その人によって向いているコトとそうでないコトが存在します。

こんなことを言ったら元も子もないですが(笑)
そもそもバスケットに向いている人とそうでない人も存在するわけです。

これは仕事でも全く一緒です。

例えば会社には、経営者と社員がいます。

どちらが優れていて、どちらが劣っているのか、ポジションだけでそれが決まるわけではないと筆者が考えています。

一流の経営者もいれば、一流の社員もいる。

ただ、それだけです。

リーダーに向いている人もいれば、誰かの下で働くのが向いている人もいるのです。

一流の経営者、一流の秘書、一流の料理人、一流の警備員、一流のゴミ清掃員、みんなどれもすごいのです。

筆者の、「向き不向き」の定義です。

「向いているとは、それに必要な技能を習熟するのに人よりも少ない時間と労力でできる仕事」

「向いていないとは、それに必要な技能を習熟するのに人よりも膨大な時間と労力を要する仕事」

自分の向き不向きに気づいていない人は、いっぱいいます。

自分で勘違いしている人も、いっぱいいます。

向いているコトをしている人は、その人が持つ最大限の力を発揮できます。

それをすること自体が楽しいので、努力を努力とすら思わず平気でできてしまいます。

楽しいと思ってやっているので、効率も当然良い。

成果が出てくれば、ますます成長も早まる。

このような好循環の中を生きていくことになります。

逆に向いていないポジションにいる人は、いくら努力をしても、いくらやり方を変えてみても、”乗ってこない”状態がひたすら続きます。

楽しくもないし、なかなか成果も出ない。

もし極限まで努力した人ならば、最終的に「あぁ敵わないな」ということを悟るはずです。

向いていないコトで努力をすること自体を悪いことだと言いたいわけではありません。

ポジションを選べない時は多分にありますし、そこで頑張るからこそ気づくことや得られることは確実に存在するでしょう。

特に若い時にはそういったことも多いはず。

しかし、長いスパンで考えた時のライフプランは別の話です。

そこに居続けることは、自分にとって、そしてチーム全体にとっても損失以外のなにものでもありません。

自分自身で何が自分に向いているのかを理解することは、人生を充実させるうえで非常に重要な要素です。

リーダーである人間も、各メンバーの特徴や能力というものを的確に感じ取り、個々の向いているポジションに振り分けることが役割になってきます。

「何が自分に向いているのか?」は、自身で気づくこともありますし、他人からの評価で気づいていくこともあります。

ただし、経験したことがないことに対しては、いくらこの問いを問いかけた所で答えは出てきません。

例えば、それが就職活動をする学生が悩む理由の正体です。

もし「その企業に就職した理由はなんですか?」と学生に問い詰めてみたら、極論を言ってしまえばその答えは、”なんとなく”に集約されると思います。(だって、やったことがないんだからわかるわけないじゃん。)

仕事を既に経験していたり、人生でやりたいことが明確に決まっていたりする学生はごく稀です。

様々な経験をしながら、「何が向いているのか?」を自分に問いかけ続ける。そうしていれば、いづれどこかで答えが見つかってきます。(そもそも、そう簡単に見つかったら”本当に向いている”ことじゃない)

そうであるならば、くよくよ悩んでいる暇があったらさっさと決めて何でもやってみる方が上です。

そういう人間の方が圧倒的に強いです。

動いているうちに、自分の向き不向きが分かったり、やりたいことが見えてきたりするのです。

そうして自分の”適材適所”を知ることが、よりよいキャリアにつながっていくことでしょう。

辛い経験こそが人間をつくる

去年のやつだけど感動した映像があったので、ちょっと共有。

筆者の好きな歌番組で、
「アメリカンズゴットタレント」や「Xfactor」というものがあります。

youtubeをよく見られる方は、ご覧になったことがあるかもしれません。

簡単に言うと、歌手を目指す方の大々的なコンテストになります。

それで、おすすめしたいのはこの動画。

 

・・・泣けますよね(T ^ T)。

この番組では、これまでに飛び抜けた歌唱力を誇る大スターを数々生み出しています。

このcalystaさんは決して圧倒的に上手い、というわけではないと思います。

でも、これまでで一番心が揺さぶられた。

結局、表現者がやらなきゃいけないのってこういうことなのかなと思いました。

揺さぶられて、揺さぶられて、

痛みと必死にファイトして。

そういった状況や感情と闘うからこそ、人としての美しさが創られていくのかなと。

彼女の言葉で特に好きなところです。

「I tried to be happy, and looked at the positive side…」

どんな状況に置かれていても、”希望”を作り出すことができるのはこの世で人間だけです。

ある意味、これはすごいことだと思います。人類が生まれて以来、あらゆる社会で宗教が存在してきているのもそこに本質があります。この話はまた次の機会に預けますが。

彼女の歌を聴いて、本当に”美しい”と思いました。

と、同時に『自分は全力で何かと闘っているだろうか?』と自問してしまいました。

歴史を勉強するとものすごく俯瞰的な視点が得られますが、
いま私たちが生きている時代、そして特に日本という国はものすごく豊かな世界です。

一人一人に焦点を当てれば、この現代にも悲痛な運命を背負っている人もいますが、日本では平均的にはほとんどの人が”安全に”生きていくことができます。

昔と比べたらえらい違いです。

途上国と比べてもえらい違いです。

これ自体はとても恵まれて良いことだとは思いますが、一方で、これから人間はどこに向かうのだろうか?ということも考えてしまいます。

ある学者さんで「無痛文明論」というのを唱えている方がいます。

社会が豊かになり、衣食住に困らなくなり、インフラがとことん整えられ、医療が発達し、ビジネスは突き詰めるまで人間の欲求に対して応えていく。

つまり、社会は”より痛みのない”世界へ向かっていると。

突然、胸倉を掴まれたような思いがしました。

ここには、どこか危険な匂いがしてならないのです。

生死に関わる痛み、人間としての尊厳を保てないほどの痛み。

これらは当然取り除かれて然るべきだと思います。今そうした痛みを抱えている人もいっぱいいます。

しかし、豊かになりすぎて、困ることがなくなりすぎて、ぬるま湯になりすぎて、楽をして生きていけるような社会が到来してしまったら、一体どうなるんだろうかと。

きっと大多数の人が、惰性的で、享楽的な生活を送ることになると容易に想像できます。

それが、人間だからです。今でも、その兆候はあるでしょう。

でも、その先に「本当の幸せ」はあるのでしょうか?

「あなたにとっての幸せ」があるのでしょうか?

僕の答えは、ノーです。

この惰性に向かっていく人間の生理に抗って闘わない限り、きっと”つまらない”人間が量産されていくと思っています。

自分自身も、こういう風に考える機会がある度に身を引き締めています。

せっかく授かった命。つまらない人生にだけはしたくないな、と強く思うのでした。

一流ジャーナリスト田原総一郎を産んだ、鬼のような「○○心」

昨日たまたま、「ダウンタウンなう」という番組の「本音でハシゴ酒」というコーナーを見ました。

ダウンタウンさんと坂上忍さんも出ていて、ゲストを呼んで(収録中なのにw)酒をがぶがぶ飲みながら本音を語っていう回るというやつ。

普段テレビは全く見ない生活をしていたのですが、最近かなり疲れて…たまに見ると面白いですね。しばらく、ゆっくり勉強に勤しもうと思っています。

昨日はゲストに田原総一郎さんが出ていました。

いや、なんて面白い人なんだと感嘆しました。

田原さんの携帯の中には、安倍首相やソフトバンク孫さんなど、政治界から財界までの大物がズラリ!という内容で話は盛り上がっている時です。

その時に、誰かからか着信があって、普通に折り返し電話し、話し始める田原さん。

「あ、はい。…はい。そう、じゃ住所言うよ。中央区・・・・・」

普通に、番組と全然関係ない仕事の電話。しかも、思いっきり個人情報(笑)

なんて人なんだと思いましたね。これが最前線で活躍し続ける人なのかと。すげー肝っ玉だな。

でも、本当に面白いと思ったのはそこじゃなくて。

田原さんが、電話をする前のやりとりでは、田原さんがダウンタウンさんに

「なんでダウンタウンは40年も売れ続けてるんだ?」

という質問を投げていたんですね。

そして、田原さんがその仕事の電話(笑)が終わるやいなや、即

「で、なんでダウンタウンは40年も売れ続けているんだ?」

もうこれは、スゴイなと思いました。周りが、「え〜!番組中ですよとか、個人情報やんっ!」とか突っ込んでいる時に。

これが、一流のジャーナリストなのかと。

「で、なんでダウンタウンは40年も売れ続けているんだ?」

これは、ウケを狙ったものでもなんでもなく、単純に素から出てきた言葉です。

つまり、単なる「好奇心」

しかも、その質問を投げる時だけ、田原さんの顔つきが変わっていたように僕は感じました。

それはまさに鬼の形相。

鬼のような好奇心、知ろうとする執念。

あのゆる〜い番組の雰囲気の中に、この瞬間にだけ、田原さんの魂の輝きを放っていたように感じました。

これこそが田原さんが、ジャーナリストとして他の人には取れない情報を集め続け、価値を生み出していく源泉なのかなと思いました。

英雄をつくり出すのは、「好奇心」といっても過言でないでしょう。

全ての圧倒的な成果は「好奇心」から生まれます。

それは、多かれ少なかれ皆の中にあるものです。

そのタネをそのままにしておかないで、しっかりと育ててあげることが大事。

自分自身においてもそうだし、これは子育てにおいてもポイントかなと思います。

どんなものが対象であっても、せっかく生まれた好奇心を塞がないこと、そして、その好奇心を育ててあげること(=行動すること)。

これが英雄を生む一つのコツなんですね。

ホームレスのおじさんから学ぶ-続けることの簡単さと難しさと、その威力

継続は力なり

筆者は以前、その辺にいるホームレスの人たちに一人で話を聞いて回ったことがあります。

日本についてまだまだ知らないことばかり。

なぜホームレスになったのか、どのような生活をしているのか、何を考えて生きているのか、

私たちの周りにいるけど、関心のないことは目に入らないし、”何も知らない”のが私たちです。

その片鱗を少しでも知りたくて話を聞いて回りました。

ビッグイシューという活動

皆さんは、街角で”ある雑誌”を売っているホームレスの方を見かけたことはないでしょうか?東京では割とあちこちで見かけるかも。

社会起業系に興味のある方はご存知かと思いますが、「ビッグイシュー」という雑誌です。

ビッグイシューJAPAN
http://www.bigissue.jp

これはイギリス発祥のストリート新聞。

ホームレスの方に、社会復帰する機会を提供しようというものです。

ホームレスの人が、この雑誌を販売する。たしか350円ぐらいでめちゃ安いので、見かけたらぜひ一度買ってみてください。そのうちの180円が販売者自身の収入になるという仕組み。

なかなか面白い活動です。

で、このビッグイシューの沢山いる売り人の中でおもしろいおじさんがいました。

その方のパフォーマンスはめちゃめちゃ良い。

他の売り人よりもはるかに多くの冊数を売りさばいています。

このビッグイシューという会社の仕組みでは、基本的に販売してOKな場所はあらかじめ決められていて、それを自由にホイホイ変えることはできません。

指定の場所に立ち続けて、売れるまでひたすら立ち続ける。

いわば、完全に「待ちの商売」であると言えます。

このおじさんに聞いてみました。

「それだけのお客さんが買い来るコツってなんなんですか?」

答えは、たった一言でした。

「それはね、毎日立ち続けることですよ」

僕は、この一言に舌を巻きました。

きっかり朝の◯時から夜の◯時まで、暑くても寒くても、雨が降っていても365日立ち続けることがコツらしい。

言うは易し。しかし・・・これが、なかなかできないのです。

他のホームレスの方でもこれを実行できる人はまずいません。

「この仕事は完全に待ちの商売。売れても売れなくても、人通りが少なくても、そこに”いる”ということが重要なんだ。

たとえ、買わなくても毎日そこを人が通る、そして毎日そこに私がいれば、私の存在が認識されるでしょ。

何かのきっかけで買ってみるかとなるかもしれない。あるいは、常連さんがたまたま通った時に休んでたらどうすんのよ。

とにもかくにも、そこに”いる”という状態をつくり出すことが大切。それには、毎日立ち続けることなんだよ。」

抽象論でもなんでもなく、極めて合理的な話でした。

辛苦を舐めてきて、且つ、結果を出している人の言葉は、すごく重い。ホームレスのおじさんから大切なことを学んだのでした。

ホームレスから学ぶ人生哲学

「人間、落ちるのは一瞬、すごい簡単だけど、そこから這い上がるのは、本当に超大変ですよ。」

メチャメチャずっしりと来る言葉でした。

僕はこんな質問を投げてみました。

「なんで、ホームレスの人たちはチャンスがせっかくあるのに(這い上がるための制度はある程度は整っています)掴みきれないですか?その原因はなんだと思いますか?」と。

また、一言。

「そりゃ・・・自分本位だからですよ」

これまた含蓄のある一言でした。

ホームレスになる原因は人によって様々あります。

ひょんな事情から環境が変わっていき、周りとの関係性も断ち、ホームレスへとなっていきます。

「結局そこから脱するには”耐える”ことができないとムリ。この辛抱が皆なかなかできないんですよ。」

人間どうしても努力を続けるのを怠けてしまう。楽な方、楽な方を選んでしまう。

でも、続けるということをすれば必ず、”何かしらの形”に成っていきます。

その努力の継続が、他の人には到底できないようなことであれば、なおさら大きな形を成す可能性は高い。

「継続は力なり」

みんなが知っているけど、みんなができない、超重要なことなんですね。