社会」タグアーカイブ

これから先、人類が追うべき指標はなんなのかを考えよう

こんにちは。石川大貴です。

さて、今日は前回記事の続きです。
記事を読んでない方は先にそちらを読んでね。
(社会は、人間の「欲」に応えようとしてきた集積である)

前回では、

「こういう世界では、欲張りであることは悪いことじゃないよね」

なぜなら、

「世の中は、”欲”によって突き動かされていくから」

という話をしました。

人間が色んな欲を持ち続けているから、世界の誰かがその欲を満たすための発明をしてきました。
そうやって人間社会は発展し、人類の集合知として集積されてきました。

そういう背景を持ってして考えると、
「ビジネスの本質は、人間の欲に迎合していくこと」だと僕は考えてます。

簡単に言えば、ビジネスするならば「人が欲しがるものを作れ」って話です。
それもたくさんの人が強〜く欲しがるものを作れば作るほど、個人や会社は儲かります。

まずは、想像しやすい今の身の回りの生活を思い浮かべてみてください。
身の回りに何があるか。どんな「欲」があなたにあるか。

まずはやっぱり「衣食住」のビジネスはとても強いわけです。
生きて行く上で絶対買いますからね。今日も皆さん食べ物を買いましたよね。
食欲は数ある”欲”の中でも、絶対に外せない優先度の高い欲望です。

一方で、例えば「妊娠中の妊婦がマタニティフォト を撮りたい!」みたいな欲望は、そもそも持つ人も少なければ、優先度としては低いはずです。お金に余裕がなければ、他のことにお金を使うはずです。

そういう意味で、「生活必需品」を抑えたプレイヤーはとても強いってことですね。そうそう潰れません。(でも、「競争がある」のはまた別の話ね)。やっぱりなんだ言っても、衣食住のフィールドで戦っている企業は売上も半端ないし、めちゃくちゃ強いわけなんです。

なんとなく、「この世は欲で動いている」のイメージがわかってきたかな?

一方で、「世間に迎合せずに自分がつくりたいモノを作れ」的な、職人気質あるいはアバンギャルドな芸術家のような考え方もあるとは思います。それはそれで僕も大好きです。その心意気は素敵ですし、時にそこから人の心をグッと掴むような大作が生まれることもあるでしょう。

ですが基本的には「人の本能的な欲」に則していないモノはどんな売り方をしようが、長く売れないと思っています。世間に全くもって迎合しないでモノを作ることは、博打に近い(あくまで、経済市場に乗せる、お金を発生させるという視点で今は話しています)

やはり「売りたい」と思うならば、どうしても人間の欲に応えていく必要があります。

つまりは、世の中というのは誕生してこのかた
「人が欲しがるものを作ったものが得をするゲーム」の中で動いているわけです。

欲しがるものを作るほど、誰かに喜ばれるし、早い話がお金持ちになれるって話です。

このメカニズムはめちゃくちゃ強い力学であって、誰がなんと言おうと世の中はそのゲームルールの中で動いています。

人の欲→満たされる→人の欲→満たされる→人の欲→満たされる

人類史を通して、この無限ループがズー〜ーっと続いてることになりますね。それもあちらこちらで。

頭の良い人ほど、または野望の強い人ほど、
人々が欲しがるモノを懸命に作って、世の中に価値を提供していきます。
どんどんビジネスが生まれて行く。

私たちは、そんな誰かが生み出してくれたモノを消費して生きているわけです。

あるいは、会社で働く人は、ある製品の生産工程の一部となって誰かの欲を満たすモノを生産しているわけです。

だいたい全ての大人が生産者であり消費者です。

そのメカニズムが連綿と続けられてきた集積の上に成り立っているのが、僕たちが生きている今の世の中。

ことに、日本において言えば、めちゃくちゃ便利な生活です。
便利どころか、小さな欲やマイナーな欲まで満たしてくれるサービスが世の中にありふれています。もっと突っ込んで言えば、地方よりも都市部の方が、よりきめ細かなサービスやモノであふれかえっています。

そう考えると、勘が良い人は
「あれ、人間の欲って全て満たされてそのうちなくならないのかな?」って疑問が湧くと思うのですが、
答えは、「無くなりません」です。

これは、歴史を見たら明らかなことで、市場経済に乗った社会において「もう、このまま現状維持でいいや。何も成長しなくていい。何も新しいものはいらない。」という仙人のような境地に達した社会はないからです。それが、資本主義の宿命とも言えます。

それで、僕が言いたいことはここからで、
「このままいったら世の中はどうなるの?」という未来に対するクエスチョンです。

頭を柔らかくしてご自身でぜひ想像して見てください。この流れのまま社会が進んでいったらどうなりますか?
人間の欲があっては、沢山のビジネスマンや研究者がその欲に応えようと頑張って行きます。

ビジネスでは人の欲に応えて、売ろう売ろうするモチベーションが働きますから、
坂を転がした雪だるまみたいに、放っておいたら止まることは絶対になくてどんどん膨らんでいきます。資本は増殖し続けるんです。富は増え続けるんです。

途上国と先進国の両方でどっぷりと浸かっているからこそ感じることかもしれませんが、
日本の生活水準は相当上がっていると思います。かのアダムスミスも「”必需品”の基準は上がるのだ」と言及しています。僕たちは当たり前すぎて気づきませんが、めちゃくちゃ豊かな生活を送っています。(経済的にね)

フィリピンの「普通」と、日本の「普通」は全然違います。
1900年代前半の日本人の「普通」と、2020年の日本人の「普通」も全然違うわけです。

でもね、「どっちが幸せなんだろう」と言われれば、僕はわからないな〜と思うわけです。

確かに、圧倒的な欠乏状態では、「安心安全に普通に生きていくことすら難しい」状態ですので、
そこからは早々に脱するべきだと思います。

腹一杯メシが食えない、病気のリスクがでかい、戦争や事件に巻き込まれる危険がある、家族を守れない。
世界をみれば、まだそういう国がたくさんあります。僕もほんの一部を見てきました。それは、絶対に解決するべきです。

日本は、概して国民の大多数の人が「ある程度豊かな生活を得る」ことにすでに成功しています。

そこから先はもはや満足度の問題であり、必ずしも
「成長」「規模」「売上」「金持ち」「名声」「地位」「所得」
そう言ったような指標で測るのは、危ういのではないか?と僕は思っています。会社にとっても、個人にとってもそうです。

例として出すのはとても恐縮ですが、わかりやすいので言及させてもらうと、日本の名経営者「孫正義さん」は誰がどう見ても「成功者」だと思いますが、測る指標が違えば、「成功者」の定義も変わってきます。孫さんが成功者と言えなくなる可能性だって、見方によってはありますよね。
(あくまで、例として出しているだけだよ。)

田舎でお金はあまり使わず、自給自足して、地域の人とは沢山繋がりがあって、毎日コタツで過ごしてるおっちゃんが
実は「成功者」である可能性だってあります。

僕が話しているのは、
「これから未来、人類が追うべき指標はなんなのか?」
という話です。

そして、
「人類は本当に幸せになっているのか?」
という問いです。

豊かじゃない時代は、みんなで一つのゴールで良いんです。

強い日本を作ろう、豊かな日本を作ろう。戦争のない国にしよう。自由で安全な国にしよう。

まだ豊かじゃない時代(地域)では、そういう共通ゴールがあります。

希望を持って、野望を持って、せっせと頑張ることが共通の幸せの価値観になり得ます。
そういうモチベーションが、国民総じてある程度豊かな状態まで国を引き上げます。

実際に、世界中の先人たちのおかげ様で、今の私たちの豊かさがあります。それは感謝しなければいけませんね。

でもそこから先は、未知の領域であり、よーく考えなきゃいけない。一人一人がね。

成長し続けることが本当にいいのか。
次から次へと出てくるモノを、消費し続けることが本当にいいのか。
結局メルカリに出すことになるのに、新しいブランドものばかり購入することが本当にいいのか。
高給職を得ようと、奨学金を使ってまで都市の大学へ行くことが本当にいいのか。
生活コストのかかる都市に住むことが本当にいいのか。
お金を得るために、家族友人との時間を犠牲にして働くことが本当にいいのか。
大きな家や車を買うためにローンを借りて、働き続けることが本当にいいのか。
四六時中働きに出て、結果ほとんど家庭にいないことが本当にいいのか。

僕が、『これからの時代は
「意味」「生きがい」「価値観」「哲学」「幸福観」
そういったものが大事になってくるだろう』と口癖のように言っているのにはそんな背景があります。

世の中のメカニズムは、否が応でも我々の生活に対して、抗えない重力を及ぼしてきます。
ビジネスは相変わらずたくさん消費させようとしてくるし、人間社会は相変わらずもっと豊かになろうとしてくる。

なにも僕は資本主義を否定しているわけではありません。資本主義が機能してきたからこそ、人間の欲があるからこそ、一人一人が自己の利益を追求してきたからこそ、これだけ社会は豊かになったことはまぎれもない事実だと思います。そんな資本主義には、リスペクトすらあります。素晴らしい仕組みだと思います。

しかし、欠陥も多すぎる。
資本主義に替わる優れたシステムは今のところ見当たらないが、矛盾や問題点が蓄積してきている。

フェーズがもう変わってきています。
一つは、日本は総じてもう十分豊かになったから。
もう一つは、日本では人口がぐんぐん減っていく時期に入ったことが変わり目の一番大きな要因です。

「欲によって動く」社会のひずみがこれからどんどん出てくるんじゃないかと思っています。つまりは、「次を試す時期」なんじゃないかなと。

僕の未来の希望としては、「みんな幸せになれたらいいよね」というシンプルなものなので、あなた個人の生き方についてもよ〜く考えてみて欲しいです。

本当の幸せってなんだんだろう

あなたが追いたい指標ってなんなんだろう

ってね。

世の中や周りに流される必要はありません。常識に沿う必要もありません。答えは自分の中にしかないですし、その賛否を判断するのも自分ですから。

経済の話なのに、すごく人間味のある話になりましたが、今日はこれでおしまいです。
お読みいただきありがとうございました。またあした!

社会は、人間の「欲」に応えようとしてきた集積である

おはようございます。石川大貴です。

みなさん、週刊少年ジャンプは読みますでしょうか?

今連載中の「Dr.Stone」という漫画を知ってますでしょうか。

個人的に、この作者がかなり面白いなーと思ってまして。マンガとしてのストーリーもそうなんですが、おそらく良く勉強されてる人だな〜と感じるコマが多々あります。

ワンピースの尾田先生とかも、おそらく相当いろんなことを勉強していて、週刊ジャンプに載るような漫画家は、ものすごく勉強していているんだろうな〜と思っているところです。

Dr.Stoneを読んだことのない方のためにざっと説明しますと、

物語は、原因不明の「何か」の現象によって、人類の全てが石化してしまうところから始まります。

石化したまま何億年もの途方も無い時間が立ったので、文明は全部なくなってまさに原始時代と同じ状態みたいになりました。

地球には、何にも無くなりました。文明も社会も、人も。

そんな時に、一人の少年だけ石化が解けます。

その少年が、めちゃくちゃ頭の良い科学少年で、あらゆる知識を使って、これまで人類が発明してきたものを、一気に時代をワープする勢いで発明していくという筋書きです。

ラーメンとか、コーラとか、爆弾とか、化学物質とか。

石化を解く方法も見つけ、仲間を増やしながら、戦争などもありながら、色んなものを発明して、人類を再び発展させていくって話です。

その今週のジャンプのDr.Stoneの中でこんな感じのセリフがありました。

「こういう世界では欲張りでいることは悪いことじゃないよね」

このセリフは、あるキャラクターに向けられて発せられた言葉です。

そいつは、頭はキレるやつでとにかく欲張りなやつ。
今の原始的な社会では、毎食サカナものしか食べられないので、「毎日肉が食いてー!」と思いたちます。それから、気球を開発して地図を作りながら、獲物が豊富にいる場所を発掘します。

次は、「食料市場ができたら、回り回って自分がガポガボ金儲けできるぞ!」と思い立ち、稲穂(イネ)を探す旅へ出かけようとしています。

そんなキャラクターに向けられた、
「こういう世界では欲張りでいることは悪いことじゃないよね」という言葉。

これが、結構深いなーと思っていまして。

「我々の世の中というのは、”欲”によって方向付けられてきた」と言っても過言ではないと思っています。

もっと美味しいものを食べたい。
肉を食べたい。
肉以外の野菜も食べたい。
毎食お腹いっぱい食べたい
寒いのが辛いのであったかい服や家が欲しい
家族を守りたい
偉い地位が欲しい
お金が欲しい

時代によって、”欲 “の形は変わるものの人類が生まれてこのかたズー〜ーっと人間には”欲”がつきまとっています。

発明の活力のとなるのは、もとを辿れば大抵は人間の”欲”です。

つまりは、人間が欲を持つ方向に社会は進んでいくということになります。

だから、美味しいものがこの世にどんどん出来ているわけです。

言ってしまえば、人間の”欲”に応えようとしてきた集積が、今の世界です。

そう考えると、
「こういう世界では欲張りは悪いことじゃないよね」
は、めちゃくちゃ深いわけです。「こういう世界では」を翻訳すると、「圧倒的に欠乏した世界」のことです。

満足に食べれない、安心安全に生きて行くことが難しい時代。

人類の歴史を見ると、ほとんどの時代がそんな欠乏時代だったわけで、今のように「みんなが普通に生きていける」時代になったのはごく最近の話です。食料が不足してたし、病気に負けてたし、戦争があった。

そこから色んな人が、発明して「人類の集合知」が上がってきたのです。Dr.Stoneの最初に石化が解かれた主人公は、そんな「人類の集合知」を保有しているので、何万年もかかってきた進化をすっ飛ばして社会を進化させていけるとも言えますね。

野望を持つこと、欲張りであることは、発明のモチベーションそのものになりますから、こういう時代では「欲張りさん」は必要なんですね。それが社会を付き動きますからね。

きっと、今後のDr.Stoneの中でも、この欲張りキャラクターはきっと大活躍して行くと思います。(でも、そしていずれ破滅するかもね)

ということで、
今日の結論は、「この世は人の欲で動いているんだよ」という社会のお話でした。

また明日!

起業家が実践者にならないことも考えよう

こんにちは。石川大貴です。

さて、前回の記事を読んでない方は、この後でも良いので前回の記事も読んでみてくださいね。

そこでは、「起業家は千手観音にならなきゃいけないんだ」という話をしました。

しかし、別の面から見ると逆のことも言えます。

それは、「起業家が実践者になりすぎてもいかん」ということです。説明します。

起業家は、基本的には資源がないので、次々と発生する様々な業務を経営メンバーで吸収することになります。

結果として横断的に様々なスキルを磨いていくことになるし、千手観音のようにいくつもの手を動かしていかねばなりません。前回説明した通りです。

ただ、これは「起業家」本人が「実践者」として兼任している場合です。

ここで華僑の例を挙げます。

僕が住んでいたフィリピンにも華僑がいます。
あの国は格差がとんでもなく大きいのですが、上を見たら金持ちは日本の金持ちよりも、桁違いの金持ちです。フィリピンでは、いわゆる財閥系のファミリー企業が総取りしているケースが多いです。中国系やスペイン系の人たちですね。華僑系の人も多いですね。

その人たちがやっぱりビジネス上手いな〜と思うのは、「カネやアイデアは出しても自分は実践者にならない」という点です。自分であまり手は動かさないってことです。

これは、「そんなラクして儲かるなんて」とかそんか薄っぺらい感情論で片付けてはいけない話です。

彼らは、ビジネスのことを本当に良く知っていて、ビジネスを成功させるためには、経営者自らが「実践者」になりすぎてはいけないことを、社会の(連綿と続くビジネス一族の)経験知として知っているんでしょうね。

やはり経営者本人が現場のオペレーションを全部やっていると、一番重要な「頭を使う」ことがすり減ってくるんですよね。

簡単にいったら「ゆっくり会社のことを、事業の戦略を、未来のことを、考える時間が全然ねーーー!」ってなるわけですね。

もちろん、なりたくてそうなるわけじゃくて自然と業務に追われてそうなっていくケースが多いです。

そんな時はよく社外のコンサルなんかを雇ったりもしますが、僕の持論では、考える時間を確保できるならばコンサルを雇う必要はないと思います。
「考える時間をどれくらい確保できるか」が、経営者とコンサルの出せるパフォーマンスの違いであって、本質的には、ゆっくり考える時間さえ取れれば鋭い戦略というのは経営者本人が作れると思うんですよね。むしろ、そうしなきゃいけない。

華僑の人たちはそれを経験的に知っているので、決して自分で自分の首を絞めるようなことはしません。自分はアイデアと戦略を出して、運用は誰かに任せるわけです。別にサボりたいからじゃないです。明確に分けるんですよそこは。成功するためにはその方が良いからって話です。「経営者」本人が、「実践者」にならないというのは、そういうことです。

そしてこの方式でいくと、いくつも同時に事業を回すことが可能になります。
時間が空いてるので、頭はいくらでも考えられますからね。彼らは、事業がそう簡単に100%成功するわけではないことも良く知っているので、いくつも同時多発的にタネを蒔いたりします。

その中で、うまくいくビジネスがあったら、他を捨ててその苗を育てていきます。何事もやってみないとわからない。だから、何発も事業を動かしていって、挑戦の回数を増やすわけです。ホント天才っすね。

「理屈は分かったけどそんなの金持ちしかできねーじやん!」ってツッコミが聴こえてきそうですが、僕もその通りだと思います笑。。はは笑。

まあ、とにかく。今日の本題は「起業家」はあまり「実践者」になりすぎないで、頭仕事に時間を使った方が良いよ。というお話でした。

今日はこの辺で。一日ポジティブに生きていきましょう!また明日!

 

「起業家」と「企業で働くサラリーマン」は全然違う!

こんにちは、石川大貴です。

さて、今日はビジネスの話です。

どちらかと言えば、「これから起業を考えてるひと」向けのお話です。

ぼくは、「起業」と「大企業」の業務をどちらも経験したことがあります。

それでやはり、企業のなかで働く人と起業家という生き物は、全然様子が違うな〜と感じました。

まず起業家は、千手観音にならなければいけません。

起業家の業務は、単一ではなく、常に流動的です。

人が恒常的に足りないのがベンチャーなので、発生する業務は経営メンバーで吸収することも多いです。

もちろん、専門性を要する業務、自分たちで能力が大幅に足りない業務、事業を成長させる上でスピードや質が求められる業務などは、費用に見合うだけの効果が見込めれば積極的に外部へアウトソースします。

それでも、やらなきゃいけないことは沢山残ります。

僕の経験を振り返ってみても、事業計画の作成や、登記などの手続き系から始まって、ウェブサイトのラフ作成、リスティング広告の運用、広告用クリエイティブの作成、SEOの向上、採用活動、社内の育成と調整、お客様の対応、飛び込み営業、社内のトラブル対応、競合先の調査、収支計画の作成、ウェブサイトのアクセス解析、戦略策定、経理処理などなど。

初めてやる業務だらけでしたが、それなりのレベルではできるようになったと自負しております(ホンマか笑)

とにかくベンチャーは、事業のフェーズによって次から次へ必要な業務が発生してきます。

初めて起業する人にとってはどんな業務が待っているのか予測することもなかなか難しいと思います。

千手観音になって、とにかくなんでもやらなきゃいけない。それが起業家です。

知らないです。やったことがないです。当たり前ですが、そんなことは言ってられません。

自分で考えて、自分で学んで、自分で実践して、自分で改善していかなければいけません。社内には教えてくれる人はいないわけなので。

なので、ベンチャーで重要なスキルというのは、実は「学習能力」そのものだったりします。

なぜなら、業務が流動的であり、次々と出てくる業務に柔軟に対応していく必要があるからです。学習能力が高ければ、まあなんでもやっていけるからです。

企業は、この逆と捉えてもらったら大体その通りのイメージだと思います。

そもそも企業というのは、分業化が進んだ先に生まれた仕組みです。

人間社会そのものを見てもそうですよね。

もともとの原始的な時代では、まず家族、親族単位で行動していて、そこから時間軸が進むにつれて、村ができて街ができて、都市ができていくわけです。

みんながみんなの家族単位でそれぞれの家族が、道具を作って、狩りにでかけたりするよりも、村社会全体単位で、道具を作るのが得意な人が道具をつくって、狩りをするのが得意な人が狩りにでかける方が生活は豊かになります。効率が良いからです。

「作った道具」と「狩りで得た獲物」を交換すればお互いに、よりハッピーになりますよね。
人には、今も昔も向き不向きがあります。大昔だって、手先の器用な人間と、スポーツ万能な人間がいたはずです。

道具作りに専念すれば、それだけ経験の蓄積も増えるので技能レベルもあがります。新しい道具だって発明されるかもしれません。狩りに専念すれば、狩りの習熟レベルはぐんぐん伸びます。新しい手法や新しい獲物も開拓できたかもしれません。

いつの時代にか、誰か天才的な村長さん一人が、「よし明日から分業しようぜ!」ってひと振りして始まったわけではありません。

そもそも世の中は、富を求めるならば分業されていくという仕組みの上にあるので
「それぞれの人間が、それぞれよりよい生活を求めたら自然と分業制になった」って話です。

これが分業です。社会は、自然と分業化していくんです。
仕組みとしてそうなっていて、分業のプロセスを経て発展していきます。そして、1700年ぐらいから始まった産業革命以降にこの分業化は、トンデモない勢いで一気に進みました。

企業ではある程度大きくなっていくと分業化を進める方が合理的です。つまり、「あなたはこれだけやって」、「あなたはこっちをお願いね」、「あなたはこっちね」ってゆう話です。
逆にいうと、「そこから逸脱するなよ」「分際をわきまえてね」と悪くいうとそういう一面もあります。

仮にも、みんながみんな好き勝手に動いて、分業せずに個々が横断的に様々な業務に手をだしたら会社全体としての出力は下がります。個々の責任感や充実感は増すのかもしれませんが。数十人規模などまだ小さい規模なら可能かもしれませんが、それ以上大きくなったら無理な話です。

そんな社会の仕組みや、企業の仕組みを背景にして考えるとよく分かります。

分業制である企業の中では、業務は「単一的」になっていくし、「固定化」していきます。
色々手を出すより、一つのことに集中して時間を注ぎ込む方が効率的ですからね。自然とそうなります。むしろ、それが健全といっても良いかもしれません。だから、起業家が千手観音ならば、企業人は大仏さまですね。「二本の手で十分だからちゃんと専門化して、その分野だけで良いからちゃんと高い成果だしてね」って話っす。

転職する人の多くが「大きな歯車の一部になるのが嫌だ」と言う人が多いですが、それもそのはず、当然です。大企業からしたら社員は一つのパーツに違いないわけですし、もっと言えば社会からしたら、職業ということ自体が一つのパーツなわけですからね。そうやって社会はできてる。逆に、分業しなかったら全体として豊かな生活はできなくなります。巡り巡って、自分にも返ってきます。

話がいつも通りそれましたが、
起業家と企業人ってだいぶ違いますよね。

ここから何が言えるかというと、だから

「起業で成功したいから、一度企業の中で修行する」という人がよくいますが、
ぼくはナンセンスな選択かなと思います。

だって、全然違うもん。

「起業がしたい」のであれば、さっさと起業した方が良いと思います。失敗するにしても、はやく起業の失敗をするべきです。

もちろん企業の中で長年修行したとして、得たズバ抜けた一流のスキルは武器にはなるでしょう。
営業とかITとか。でも、さきほど言った通り起業の中で必要な力は流動的であり横断的なので、企業の中でそれらを全部養っていくのは厳しいと思います。

だから、結論としては、

「これから起業を考えている若い人は、どうやったら最短で起業できるかを考えた方が良い」
ですし、
「いま企業の中で働いていて起業したいなと思ってる人は、いますぐにでも辞表を出して起業したら良い(できなければ週末起業とかしたら良い)」です。

理由は、起業と企業の中で働くことは全然違うから。はい、以上!

ただし、例外があります。
①「どうしても思い入れの強い業界があって、その業界で起業しようと思ってる」場合と、
②「事業をやる上で相当キーポイントとなるスキルが明確である」場合です。

まず①ですが、「業界知識」というのは起業の成否に関わってくる無数の要素の中でもめっちゃ重要な一つです。業界の中でドップリ浸かって、誰も知らないような業務特有の知識を知ってれば、それだけでイケイケのビジネスモデルができる可能性があります。間違いなく強みになります。逆に、業界に関してあまりに無知だと、起業した後に「業界知識」を学習していくはめになるので、特有の業界構造のワナにハマってしまうリスクもあります。「うわ〜、知らなかったマジか!このビジネス上手くいかないじゃん!初めから知っておけば…」と残念な感じになることも。なので、業界を決め打ちしてる場合は、まず企業に入って働けば深く業界を知れるので、戦略としては極めて有効かと思います。スキルも身につくし。

そして、②の「事業をやる上で相当キーポイントとなるスキルが明確である」場合では、例えばですけど、ブロックチェーン関連で起業したいなどのケースです。この場合は、その知識とスキルそのものが、他社との優位性、事業の成否に大きく関わってきますので、まずその分野でゴリゴリの一流になるのは戦略としてアリです。「学ぶ」という意味では、分業制の権化とも言える企業の中にはたくさんの知恵が詰まってますし、教えてくれる先輩もいる、しかも給料も貰えるわけですから、使わない手はないでしょう。特定のことを学ぶ環境としては、最高なんですね。

さて、なんとなくイメージは掴んでいただけたでしょうか?

今日は起業人と企業人という観点でのおはなしでした。少しでも参考になれば嬉しいです。ではまた明日!今日も一日頑張っていきましよう!

自分の無知を知ることから、キミの成長は始まる

こんにちは。石川大貴です。

今日はちょっとした思い出話をします。

以前の記事の中で、「孤独は、人間を成長させる」という話に触れました。

なぜ、僕が孤独になって友達を一人もつくらなくなったかと言えば、それにはきっかけがあります。

ちなみに僕はバリバリの運動部で仲間と騒ぐのも好きなので、もともと陰気キャラなわけではないです。むしろ逆です。

ですが、しばらく「孤独になろう」と思ったのは、「やばい、とにかく成長しなきゃ」と思ったからです。

そのためには「普通に」努力していたのではダメで、「圧倒的に」勉強しなきゃいけないと強く思えたからです。

だから、いろいろ切り捨てて「時間の優先順位」を考えていった結果、いつのまにか孤独になっていきました。

成長しなきゃ、圧倒的に勉強しなきゃと、思うようになったきっかけがあります。

大学を休学してフィリピンに住んでいた時の話です。

その頃僕は、毎日街の中を自由気ままにブラブラする生活をしていました。話がズレるのでここでは掘り下げませんが、一番の目的は、貧困を知ることで、日本とは違う社会を深くみたいなと思ってました

住んでた家の近くに、日本食レストランがあって、そこの定食が超安くて超うまいのでたまに通ってました。

いつも店の端っこの席で、パソコンを開きながらゆっくり時間を過ごしてました。

ある日のこと。

いつもどおり、定食を食べ終わってゆっくりしていたら、対角線上の反対に座っていたオーナーのおばちゃんから声をかけられました。(このレストランのオーナーはいつも店のテーブルに座って仕事をしている)

僕ばしばらく通っていて、その店のことは知り合いを通じてよく知ってました。

オーナーに初めて声をかけられました。

「あんた何歳?」

「23です」

「はっ笑。小僧だねぇ」

改めて、確認しときますが、お互い初めての会話です。お互い知りません。

(しかも、遠くから話かけられてるから、超声がでかい)

なんか自分で今書いていて「なにこれ?ワンピースの話?」と思いそうですが、マジであった話です。

僕は、意味がわかりませんでした。

意味は、わかりませんでしたが、なんとなく意味はわかりました。(何をいっているんだ笑)

ちなみに、この方はフィリピン界隈の人はすぐ分かると思います。フィリピンでビジネスを30年続けてこられたビックマムみたいな存在です。(ちなみに、見た目は巨漢で、それなのに超軽快で、髪は確か赤色だったかな。服はいつもド派手のカラフル。女性です。)

フィリピンで、ビジネスを30年やってくるということは、並大抵じゃないです。生き残るだけでも、至難の技です。というか、日本人オーナーで本当に殺される人もいるくらいの国です。殺し屋が今も普通に存在してます。ビジネス環境もまだまだグレーゾーンが多く、チャンスも多い一方で、いわば「やったもん勝ち」みたいな一面も強くあります。そんな場所で、しかも年商数億規模です。マジですごい人です。

そんな人からしたら、

23才なんて、ほんとに若造で小僧中の小僧です。

世の中のことをなんにもわかっちゃいない。

ちょうどこの頃、僕は街を歩きまわっていて毎日いろいろな光景を目の当たりにしている所でした。

初めての国ということもありますが、ぼーっとして生きてきてよく考えたら自分は「何も知らないんだな」ということを感じ始めてる時でした。

世の中にどんな人がいるのか、

どんな人がいて、何を感じて生きているのか、

どんな問題を抱えていて、なにを大事にして生きているのか、

人に関しても、実は分からないことだらけ。周りの人も実は深く知らないし、遠くの人のことも何も知らない。そして、街を歩いていても、

この建物はなにをやっているんだろうか?

この看板はなんなんだろう。

同じ商品がいろんな場所にあるけど、どういう流通経路になっているんだろう

まちのお金の流れってどうなっているんだろう

気になりはじめて、疑問を持ちはじめたら、「あれ、おれって世の中のこと何も知らないんだな」ということに気づきました。よく知っている(と思い込んでいただけの)日本では、得ることのない感覚でした。全く初めての国だったからこそ、フラットに疑問を持てて、無知を悟りました。

そんなタイミングでの、ビックマム(ってもう呼んじゃってますが)からの「小僧だねぇ」発言。

僕のぼーっとした顔がそれを言わせたのかもしれません。

まあ、普通の会話としては意味がわかりませんが、僕が言われた「小僧」という言葉には、本当にスーッと腑に落ちたというか、「その通りだな」と思ったのでした。

これが、きっかけです。

このあたりから、「あ、やばいな、成長しなきゃ、圧倒的に勉強していかなきゃな」と思うようになりました。

ちょうど、やりたい自分の方向性が見えつつあった時期でもあったのでなおさらです。

結論としては、

僕の例はあまりに突飛だと思いますが、読者の中で、仮にいま「自分の無知」や「不甲斐なさ」を少しでも感じる境遇にいる人がいれば、僕はあなたにエールを送りたい。

無知を悟るような経験は、少なからず誰にでも訪れるはずです。そして、「何も知らない、何もできないこと」を知ることは、かならず成長の糧になります。その素直さは、とても素敵な感性であり、才能だと思います。(弱さを認められない人も多いですからね)。無知を知り、人は強くなっていくんだと思います。ここから頑張っていけば絶対に届きます。

ということで今日は、キミの成長は、自分の無知を知ることから始まるよというお話でした。また明日!

大学に行くことに意味はあるか考えてみる

こんにちは。石川大貴です。

さて、今日のテーマは「大学」です!

 

日本には確か私立・公立合わせて800ぐらいの大学があったかと思います。
確かそのくらいだったと思います。とにかく、日本には沢山大学があります。

数だけの話でいえば、実はこんなにたくさんの大学はもう必要ないと、僕は思っています。

ご存知の通り日本の人口は減り続けてます。2018年、つまり昨年を機に、大学入学する人数は確実に減っていきます。人口動態的に、間違いなくそうなります。

おそらく大学は、存続の危機にさらされる試練の時期でもあると思うので、潰れるなり、形を変えるなり、何かしらの変化が起きてくると思っています。

大学の歴史というのは、結構面白くて、本当にもともとの起源はヨーロッパだったかと記憶してます。12世紀前後くらいだったと思います。諸説ありますが、「ギルド」のような形で自治組織として作られたのが大学の走りです。つまり、純粋に「自分たちで色々学ぼうよ」ってノリで作られたものですね。

そこから世界へ広がっていく過程で、各地の社会事情に合わせて「大学の仕組みや役割」は異なっていきます。

1700年頃に徐々に産業革命が始まって、19世紀、20世紀には一気に商業社会、工業社会へ変わっていくわけですが、その中で特にアメリカで大学は栄えました。
アメリカでの大学は、今の日本の大学のイメージに近いと思ってもらっても良いと思います。
(ただし、日本よりもちゃんと勉強させるし、厳しいっす)。
似てるのは当然で、日本の大学制度は主にアメリカ式の大学制度を輸入したものだからです。

社会の変化を見る上で、「大学進学率」は一つの指標として面白いです。
日本では、1960年とかそこらでは大学進学率は相当低かったです。確か20%も行かなかったはずです。(さっきから、ぼんやり記憶で話してるのでざっくりと聞いてねw)

つまり、エリートだけが行く場所です。
大学は、高給な仕事につくために必要なスキルや能力を身につける前段階の準備、その教育機関として機能していたわけです。

お金もかかるし、
(「お金」というのは、学費だけじゃなくて、学ぶ間の時間の猶予も含めて。だって大学に行かない人はすぐに働きに出て収入を得られるわけなので、学ぶには生活費、時間の猶予が必要です)

しかも試験のハードルも高い。
誰もが行ける場所ではありませんでした。しかし、その分「高い」能力を身につけるのにある程度の機能を果たしていいたのだろうなと推察します。

そのあとは、みなさんご存知の高度成長期に突入します。
1960年代から、日本の「大学進学率」はぐんぐんと上昇していきます。この数十年で大学の数もどんどん増えていきました。

それだけ、商業・工業が成長して、「高給な仕事」の需要が増えてきたとも言えますね。
とにかく、高給な仕事につくため、社会にとっても使える高能力の人材を作るために「サラリーマン養成機関」として、大学が機能してきたのだろうと、僕は思っています。

大学進学率はぐんぐんと伸び続けて2000年代には50%を超え、近年では60%にも届く勢いです。
二人に一人以上が大学へいく時代になっているのが今の世の中です。ちなみに、先進国はだいたい「大学進学率」は50%を超えています。お隣韓国も60%超えていたような気がします。

つまり、大学は大衆化してきた、ということです。

さて、ここまで社会全体の話をしてきましたが、ここで話を僕個人の例に一気に引き離します。

今日考えたいのはズバリ「大学に行くことは意味があるのか」です。

みんなが気になることだと思いますし、今の時代よく考えた方がいいだろうと思っています。

僕の子供も「大きくなったらどうさせるか」は考えておきゃなきゃいけないなと思ってます。

じゃ、話をしていきます。

僕は、1年の浪人を経て東京外国語大学へいきました。
外国語ではNo1の学校なので結構レベルは高い大学だと思います。

それで、僕は7年間ほど在籍しのちに大学を中退しました。うち3年ぐらいは休学してました。

中退した理由は、「自分がやりたい方向性が定まってきて、大学にいることは時間がもったいなくなったから」です。

ただ中退したからと言って、安易に「大学は意味がない」と結論づけるつもりはありません。

まず
①選択肢の幅が広がる
②時間の猶予が得られる
③興味があれば学べる
の三点で大学には価値があると思います。説明していきます。

①選択肢の幅が広がる

言わずもがな、これは就職の話です。レベルの高い大学へ行くほど、いわゆる高給の企業や大企業に入れる確率は高くなります。東京外大でも「良い」就職先に行く人が沢山いました。今の時代でも学歴は立派に機能していると思います。「学歴だけで判断するなんて!」みたいなことがよく叫ばれますが、仮に僕が採用担当だっとしても、学歴は一つの指標として加味します。まあ、当然の話だと思います。受験をパスしてきた、少なくとも試験や論文を乗り越えてきた、という意味である程度の訓練は受けてることを意味します。全く何もしてこなかった人間と比べるならば、まだ信用があるのは当然っちゃ当然です。大手の採用担当も大卒なはず(=自分も同じ苦労をくぐり抜けてきた)ですから、そうなるのは当たり前です。
(でも、大学行ってない人でも、例えば「中学生の頃から自分で作曲にハマって曲を作りまくって、この前テレビにも出ました」みたいな変人がいれば僕は問答無用でそちらをとります)

②時間の猶予が得られる

これは結構でかいと思います。僕がこれを活かせたパターンですね。普通大学へ行くということは、「働くまでに少なくとも4年間の時間的猶予が得られる」ことを意味します。そうじゃない人は、すぐに働いて収入を得られる訳ですが、大学へ行く人はそうではありません。収入もないくせに、学費も生活費もかかります。機会損失がある代わりに、時間を得られます。
高校を出るまでに、「自分がやりたい方向が定まっている」人はかなり少ないと思います。僕もそうでした、ボッーとして生きていたので何も考えてませんでした。日本だと、こういう人が大多数だと思います。チコちゃんにみんな怒られるのが日本です。その場合には、大学へまず行って、 在学中に「自分の方向を定める」ことは戦略としては大ありだと思っています。ただし、最悪なのは「方向も定まらない、勉強もせず何も学ばない」ケースで、僕はこのケースが今の日本で一番多いんじゃないかと思っています。学費は、国立だと年間60万ぐらい、私立だと倍の年間120万ぐらいかかるわけです。要は、ただ遊んで時間を浪費するためにそれだけのお金をかけてるようなもんだと僕は思っています。それなりの所に就職するんだったら、別に大学に行かなくたっていいじゃんと思います。それに働く前に「遊ぶこと」が目的なのであれば、1年ぐらい集中して、日本でも世界でも自由に飛び回って遊んだ方がよっぽど効率が良いと思ってます。遊びは、やりすぎると大体飽きます。
つまり、「大学へ行って時間を浪費する」パターンが最悪で、これは絶対に避けたいなと思うわけです。

大学がまだ「サラリーマン養成機関」として機能していた時代、社会にまだまだモノがなく豊かではない時代でしたから、「豊かになろう」がみんなのゴールでした。わかりやすい時代です。みんなで一つのゴールを目指すわけです。

その頃は企業のライフサイクルも長かったです。「一度企業に就職すれば定年まで働ける」は、普通にみんなが持っていた感覚でした。しかし、現代は企業の寿命がだんだんと短くなっていて、昔は企業の寿命が60年とか言われてましたが、今では10年単位で会社も生まれ変わります。新しい企業が出ては、古いのが衰退して行く。確かに変化の激しい時代です。
そうなると、「一度企業に就職すれば定年まで働ける」は成立しません。つまり、職能(仕事に必要なスキル)も一つではダメだし、新しいことをどんどん学んでいかなきゃ行けない。

そういう意味では、大学のうちに少なくとも1つ専門性を身につけておくという経験はとても大きな軸になります。年をとって変化しなきゃいけなくなったとしても、軸が一つある人間は他のことだって学んで行けます。強いです。

あるいは、大学のうちに様々なことに挑戦して、複数のことをしっかりと勉強・経験することもすごく有意義だと思います。これからの時代にもあっています。

そのどちらもせずに、何も勉強しない、何も経験しない、ただ部活をやってバイトをやって、遊んで、卒業は最悪です。めちゃくちゃお金が勿体無いと思います。

僕も子供が大きくなったとき、高校卒業してまだ「自分の方向性」が定まってなくて、本人が「大学へ行きたい」と行ったら、進学は考慮します。
ただし進学した場合は、大学の「外へも出る」ように促します。僕がやりたい方向性が見つかったのも、大学を休学してフィリピンへ行ってからでした。留学でもないし、語学学校でもありません。ただ、好奇心に任せて動いていたら偶然導かれるように、自分の方向性が見つかってきました。学校の中には予定調和しかないので、とにかく外に出るように環境を整えてあげます。

あるいは、子供が特に「時間の猶予」だけが欲しいのであれば、他の選択肢も考えると思います。時間の猶予を得るために大学へ行かすのは、はっきり行ってコスパが悪い。(優等生で真面目に大学でも勉強を続けて、一流企業に就職するような子なら別ですが、多分チャランポランな僕の息子はそうならないと思うので。)
海外に興味があれば、とりあえず海外へ放り込むし、例えば音楽とか絵画とか、あるいは職人とかなんでも良いけど何か興味があるのであれば、修行できるような、本物に触れられるような環境に放り込む(ことを提案する)と思います。

③興味があれば学ベる

これは、大学の中身自体の話ですね。僕は、「大学の授業自体には価値がある」と思っている立場です。ただし、一番重要なのは「興味があれば」という枕言葉です。

本人に興味がなければ、前述のとおり大多数の大学生はダラダラします。チコちゃんに怒られるパターンです。ただ「単位を取るために」勉強するだけです。これははっきり言ってめちゃクソ意味がないと思います。知識も残らないし、別に興味もないから脳みそも喜ばないし、自発性ももてない。ただの作業になります。だから、子供がその分野に強い関心興味を持っていれば、大学は価値を発揮しますし、そうでない場合は「ほぼ学ばないよ」と思ってもらって良いと思います。

なんだかんだ言っても、大学にいる教授は(どこの、どのレベルの大学であっても)その道を何十年も突き詰めてきた専門の人です。変人です。
その人が話す講義は、興味を持って聞けば面白くないはずがなく、学べることはたくさんあるでしょう。ちなみに、僕は自分の学校はかなりサボってましたが、他の大学の授業に出てた時期もあります。歌舞伎や能の講義とか、企業の歴史とか。どんな分野であっても、学べることは確かにあります。

だから、僕の子供も高校までにすでに特定の分野に強い興味を示せば、その大学へ進めることは考えますね。あるいは、専門学校でも良いです。ただし、そうじゃない場合は、先ほど言った通り、「大学進学で時間的猶予を得て、外で色々経験させる」か、「大学以外の選択肢を考える」ですね。

以上、いつくかの観点で「大学は意味があるのか」をみてきました。

ご自身のケースに当てはめてみて、ぜひ考えてみていただけると僕も嬉しいです。そのあとの人生に大きく道が変わってくる選択だと思います。幸せな人生になることを祈っています^ ^

では、今日はこれで。また明日!