こんにちは。石川大貴です。
クリスマスの夜に書いています。
今日はただの、世間話的な内容になります。
昨日はたまたま情熱大陸をみました。ロボットエンジニアの林要さんでした。あのペッパーくんを開発した超一流のエンジニアさんです。
彼らが今つくっているのは、「ラボット」と呼ばれるロボットだそうです。
このロボットは、何もしないそうです。
いままでの文脈とは全く異なる思想で作られている印象です。
ロボットというのは、基本的には人間社会において自動化を進めるためのものです。役に立つものです。
作業をよりラクにしてるくれる、より高速で、より優れた質で作業をやってくれるのがロボットです。
ロボットがあることによって、私たちの生活はより便利になるか、よりラクになるかのどちらかです。
「痛みがなくなっていく」という表現が適切かもしれません。人間社会は、ロボットによって段々と無痛文明、つまり、不便さが解消された世界、痛みが消えた世界へと向かっていきます。
ところが、彼らが作っている「ラボット」は、その文脈とはまるで違います。
ラボットは、何もしない。ただ側にいるロボットです。幸せになるためのロボットなんだそうです。
便利にするためでも、ラクにするためのものでもありません。
ペットの感覚に近いかもしれません。いつもそばにいてくれる存在。愛着をもつ家族のような存在。
「ラボット」は、生き物に近いような感覚で開発されているらしいです。
体温があったり、呼びかけたらこっちを向いてくれたり、いろんな表情をしたり、人見知りをしたりもするそうです。
転んだら自分では起き上がれないので、起こしてあげなきゃいけないんだって。ふふ、面白いですねー。
本当にめちゃくちゃ高レベルの技術力で作られてるんだなと思います。
こういうペットに近いようなロボットや小型のコミュニケーションロボットは昨今の日本では、実はたくさん作られています。
これは、日本特有の動きなのだとも関係者から聞いたことがあります。
海外では、日本ほど多くのベット型ロボットや家族型ロボットは存在しないそうです。
どこか思想の違い、文化の違い、アニメの影響や、人型ロボットドラえもんとか鉄腕アトムとかの影響とかもあるのかもしれませんね笑。本当のところは分かりませんが。
ビジネス的に、世の中の人が、ただ側にいてくれる「ラボット」のようなものを求めているのか、求めていないのかも正直わからないなと僕は思います。
僕自身はは必要ないなとは思いますが、日本の超トッププレイヤーである林さんが事業を進めていて、莫大な投資も集めていることから、「ラボット」というサービスが世の中に埋め込まれる未来も近い将来ありえるのかもしれませんね。
「問題」は発明されるものであって、新しい市場は誰かの手(ビジネス)によって作られていくものです。
側にいる存在なしでは寂しく感じて、一家に一台「ラボット」が飼われる(買われる?)時代もくるかもしれません。
変化していくこと自体は、とてもワクワクしますし、日本独自の流れなのであればとても面白いことだなと思います。
一方で、昨日の情熱大陸をみながら「ん〜」と頭を抱えるようなモヤモヤ感も感じました。
ここから先は完全に僕個人の感想です。そして、ビジネスうんぬんというより人間としての話です。
愛着の持てる家族型ロボット「ラボット」。
実際にさわりもせずにあれこれ言うのは筋違いだなとは思いつつも、
僕はあまり美しいものではないのかなと感じます。
というのも、生物が根本的な生きる過程からは外れているモノだと思うからです。
どれだけ生き物に寄せようと、それはモノです。
自然にまばたきするように、体温を感じるように、人見知りをするように、手間がかかるように、設計されているわけです。
そこに決定的な一線があります。
赤ちゃんが生まれ、だんだん大きくなり、大人になって自分の子を産み、子を育て、年寄りになって、死んでいく。
生き物は、この過程を経ることが自然だと思います。地球が生まれて以来、ずーっと行われて来た生物のもっとも根源的な過程です。
今は結婚しない選択もある時代ですから、自分の子を持って、育てるという過程がない人もいるかも思いますが、やがて死んでいきます。
最初と最後はみんな同じです。致死率100%です。そして、いつどういう運命で生まれ、死んでいくかは誰にも分かりません。
ペットも同じだと思います。同じ生き物です。
ここに何か決定的に大事なことがあって、家族の愛着というのはそういった生命の自然の過程の中で生まれていくものなんじゃないかと思うわけです。
人が生きると書いて人生ですから、この基本的な生きる過程が抜けてしまっては、もはや人生ではないと思うわけです。やっぱり生きていてこそ人間の人生になるし、ペットも同じだと思います。生きていてこその生き物です。
昨日の番組の中でたしか、ラボットは「一人家族が増えるような感覚」、といったような言葉を発してしたような気がしますが、プログラムされた人工物がただ側にいることには全く美しさを感じないのです。家族の愛着とは決定的に違うと思う。
手間がかかるというレベルではなく、家族はめんどくさいものだと思います。ペットもそうだと思います。
けんかもするし、面倒みなきゃいけないし、病気にもなるし、相手のことが分からず理解し合えないこともあるし。そして、死ぬし。
でも、一緒にいてたまらなく嬉しい瞬間もあります。死んでしまった時にこれまで経験したことのない悲しさが襲います。
例えば、人生や生き物にはいろんなシーンがあります。
クリスマスの朝、子供がプレゼントを開けている光景。
余命宣告されて残された時間を家族と戦う光景。
赤ちゃんが生まれた時の光景。
カップルが喧嘩している光景。
ペットの猫をやさしく撫でている光景。
ペットの犬が病気になり最後の瞬間をみんなで看取っている光景。
その逐一が、僕には美しくうつります。
それがなぜなのか?
それはよくわかりませんが、自然的な日常の姿に、そのはかなさに、僕は美しさを感じます。
そうあるべくして作られたモノに、それと同じ美しさを感じることはありません。
人工物に対して美しいなと思うことはもちろんあります。スペインのサグラダファミリアなんかはとても美しい。建築美を追求した人間の結晶だと思います。その努力と探究心と建築家の美学に心を奪われます。今回の「ラボット」に感じる美しさも、どちらかというとこれと同じ種の感動です。
技術としての高さ、技術者たちの途方も無いような苦労。まだないものを創っていく冒険と挑戦。それ自体はとても素晴らしいことだと思いますが、建築物に感じるのと同じ美しさです。家族に感じる美しさではありません。
ですので、「ラボット」を「家族」と呼ぶのには僕にとってはあまりにも違和感があります。自分の子供には絶対に買い与えないと思います。
たとえ、家族型ロボットが日本に普及される未来が来たとしても、そのあと揺り戻しがきて、
「やっぱり家族っていいよね、ペットっていいよね」
となって、家族を持つ人が増える、人との付き合いが増える、実際の生き物のペットを飼う人が増える、という流れが僕が考える一番美しい未来かなと思いました。
まあ、実際どうなるかはわかりませんけどね。
てなことで、今日はロボットと人間に関する空想話でした。
メリークリスマス!家族、友達、もしくはペットとハッピーなクリスマスをお過ごしください!
また明日。