本当の「勉強」とは何か?

こんにちは。石川大貴です。

今回のテーマは「教育」です。

最近、小学生から高校生までプログラミングの家庭教師をしたりしています。

まだ幼いですが自分の子供もこれから小学生になり、中学生になり、高校生になり、大人へなっていくんだなと思うと教育に関して考えることが多い今日この頃です。

森博嗣先生の「勉強の価値」という本を読んで、「ふむ、ふむ、なるほど。うん、うん、そうだよね」とうなずく部分が多く、非常に面白かったので僕の考えも含めてまとめておこうと思います。

■「なんで勉強するの」とずっと思っていた

たしか中学生に上がってしばらくした頃だと思いますが、まだ子供だった僕は「なんで勉強するんだろう?」とずっと思っていました。

いや特に勉強を頑張っていたわけでも、親に「勉強をしろ!」と言われていたわけでも全くないのですが、学校の勉強に対して「つまんねーなー」と思っていたのは鮮明に覚えています。

「なんで勉強をするのか」という問答は、結構多くの子供が通る道なのかなーと思っています。

「将来、役に立つから」では、あまりに漠然としていて答えになりません。それを言う親自身も、勉強の価値を本質的に理解できていないからではないかと思います。

そもそも子供が思索できる未来は限られています。今日を、いまを精一杯生きているのが子供です。彼らが考えうる未来なんてせいぜい1週間先か、1ヶ月先かそれくらいです。「将来」なんて言われてもピンと来ないのは当たり前です。

■そもそも「勉強」の意味を分かっていない

「なんで勉強するのか」の前に、そもそも「勉強とはなんなのか」、根本的にそれが分かっていないんじゃないかと思います。そんなことを教えてくれる先生や大人はあまりいないですよね。

勉強の定義ってなんなのでしょうか。

広辞苑を引くと、「学問や知識・技術などを身につけるために学ぶこと。」とあります。

まあまあまあ、広義の意味ではそうなんでしょうが、僕はなんかしっくりきません。

「勉強には種類がある」と、僕は思っています。

それは「目的がない勉強」と「目的がある勉強」です。

言い換えると、「やらされる勉強」と「自分からやる勉強」とでも言えましょうか。

学校でやる勉強はどちらでしょう?

どう考えても前者ですよね。義務教育と「義務」が付いてるくらいですからね笑。やらされてる感がハンパじゃないです。

文科省が作った学習指導要領というものがあり、「この学年の間にこれとこれとこれを勉強しなさい」といった指示書のもとに先生は授業をしなければいけません。それを生徒は学び、成績がつけられます。

現代の子供(と大人も含めて)は義務教育をみんな受けます。全ての人はここ(=やらされる勉強)がスタート地点なので、「自分からやる勉強」の方をほとんど知らないのではないかなーなんて思っています。

大人になってからそれを知る人もいるでしょうが、おそらく少数派なのではないでしょうか。

■目的のある勉強が本当の勉強である

「目的のある勉強」が本当の勉強であって、「目的のない勉強」「やらされる勉強」というのは本来の勉強とは全然違う、真逆に位置するものと、僕は捉えています。

本来の勉強というのは、非常に奥深く、難しく、そして面白く、喜びに満ちたものです。無理矢理やらされるもの、我慢をしてやるものではありません。

僕もそれを知ったのは、高校へ行き、浪人を経て大学へ行き、その後休学をして中退を決めたそのあたりです。つまり、”学校の外”へ出た後です。

それはもう、衝撃的でした。

本筋から逸れるのでここでは詳しく触れませんが、一度自分の目的が見つかると「勉強」がしたくてしたくて仕方なくなりました。

あれほど嫌いでつまらなかった「勉強」が、いきなり大好きで楽しい「勉強」に変わったのです。

そこからの僕は、はちゃめちゃに勉強をやりました。どうしてもやりたいこと、知りたいことがあったので、寝る間も惜しみ、削れる時間は全て削り、ひたすら勉強に時間を費やしました。

いまはもう少しマイペースにゆったりと「勉強」をしていますが、寝ても覚めても勉強をする時期はとても幸福な時間でしたね。

学校の勉強というのは、「目的のない勉強」「やらさせる勉強」です。
つまり、本来の勉強とはかけ離れているわけです。ここが分かっているのか、分かっていないのかがミソです。

親も先生も、ここを曖昧にしたまま「勉強しよう」だの「きっと将来役に立つから」だの言っているからおかしくなっちゃうのかな、なんて思います。

「目的のない勉強」とは、例えるなら「完成形がないのに金槌で釘を叩く行為」です。

本来金槌で釘を叩くという行為は、いえを作るだとか、椅子を作るだとか、家具を作るだとか、何かしら目的があって、それを実現するために行いますよね。

何か目的があって、そのプロセスとして行うのが本来の「金槌で釘を叩く」ことであるわけですが、その目的が欠如した状態のまま「金槌で釘を叩かせる」。いわば、それが学校教育に当たります。

特に目的を与えることもなく、「将来役に立つから金槌で釘を叩けるようになっておこうね」ということで、ひたすら金槌で釘を打つ練習をさせるわけです。

目的も何もないまま、ひたすら金槌で釘を打つ、ただそれだけを練習します。

いえを作りたい、椅子を作りたい、家具を作りたい、そういう何か目的があってこそ、そのプロセスである金槌で釘を叩く行為も面白く感じてくるものですが、それが無いのです。

やらされている方からすれば、「なんだこれ」と感じてしまうのも無理もない気がします。

■テストは、「目的」にはなり得ない

なかなかに厄介なのは、この目的とはなんぞやという話です。

学校のテストは、目的にはなり得ないと僕は考えています。

「目的のある勉強」。ここでいう「目的」というのは、自分がやりたいこと、心から湧き出てくるもの、夢だとか野望だとか、そういう極めて内発的なものです。

言われてやるとか、誰かに準備されてやるとか、そういう外発的なものではありません。

「目的」を他の言葉で表現すると「ビジョン」に近いかなと僕は捉えています。日本語で言うと世界観とかですかね。僕はこういう風になりたい、私はこんなことを実現したい。ビジョンを描くと言うように、やはり目的もその人本人が「描く」ものなんですよね。

これは完全なる主観になりますから、目的には大きい小さいも、良い悪いも基本的にはありません。どんなことでも立派な目的になり得ます。

ただし、それは自分が、その人自身が描いたビジョンです。

ビジョンというのは、仮にAというビジョンが達成されたとすると次にワンステージ上のA’のビジョンが生まれてきて、それがまた達成されたらA’’とまたワンステージ上のビジョンが生み出されて。というように昇華されていくものであると考えています。

だから、本来の勉強には本質的に終わりがないわけです。一生勉強、死ぬまで勉強です。

ビジョン、目的には、それほど深いものがあり、人を惹きつけるものがあります(それを時に”生きがい”とも言ったりするのかもしれません)

ただし、この目的ができるためには、ある程度の人生経験が必要です。

世の中に何があって、自分の可能性はどれくらいで、といった自分自身への理解と、外の世界への理解が必要になってきます。

いろんなことを見たり、聞いたり、やってみたりする中で、「あーこれかな」というのが見つかってきたりするものです。

子供は、年齢的にもまだまだ人生経験が少なく、ましてや生活のほとんどを家と学校だけで過ごしているわけですから世の中のことを何も知りません。

こういう状態では、目的を持つことも難しいでしょう。

やはり、目的を持つにはある程度の人生経験を重ねることが必要だと思われます。ですので、子供が本来の勉強をするのは本質的には難しいことと言わざるを得ません。

ちなみに。

話が横道にそれますが、僕がプログラミングの家庭教師をしていて、たまに「プログラミング検定」を勧めることがあります。つまり、テストを受けさせるということです。

そのテスト対策をして検定にのぞむということをするのですが、やはり、やりすぎは危険かなーとも悩みながらやっています。

テストというのは、短期的なモチベーションを作る上では役立ち、確かにテスト対策をすることで学習が進むことは進むのは事実なのですが、本来の勉強からは逸れていきます。

「〇〇テストで1番になる」「〇〇受験に合格する」そう自分で決めて、自分で目標にすればそれは立派な目的のある勉強じゃないか、と言う声も聞こえてきそうですが、テストは目標にはなっても、目的にはならないでしょう。それは、極めて一時的だからです。

競争の中で勝ったり、数値で結果が出たりすることは非常に分かりやすいので目標としてはとても良いと思うのですが、どこか描く「ビジョン」というほどの世界観は与えてくれない気がします。しかも、目標にしたとしてもその先がなかったりします。達成したとて、「で?」という感じでしょうか。

描くビジョンとしては、とても弱いのです。
目的とは、そんな一時的で、薄っぺらいものではないのです。

目的とは、自分はこうしたい、自分はこうなりたい、というもっと内発的で心の中から沸き起こってくるものです。長期にわたって持続するような強い動機です。

テストなどで作るモチベーションは、もってせいぜい数ヶ月か1年と言ったスパンでしょう。
(かくいう僕も、そのやり方で受験勉強だけは乗り切りましたが、案の定合格した後(テストが終わった後)には何のモチベーションもビジョンも残りませんでしたね)

テストというのは短期的なモチベーションを無理やりにでも作るものであって、それ自体は目的・ビジョンにはならないということです。

だから、プログラミングを教えていて、テスト対策をやらせるのもなんか違うな、と僕は考えています。

プログラミングというのも、本来はそうじゃないんですよね。もっともっと自由なもの。作りたいものを作る、実現したい世界を作り出すための手段なんですよね。

目的があって学ぶ勉強。それがプログラミングです。「やらされる勉強」では、やはり本来の勉強からは逸れていってしまう。

だから、本当のことを言えば、本来は先生自体が別に必要ないし、ましてやテストだって必要ありません。自分でやりたくて、何か実現したいことのプロセスとしてやるわけですから先生がいなくたって、テストがなくたって自分でどんどん自走して学んでいくことができますからね。

プログラミング教育が学校教育に組み込まれることで懸念している1番のポイントはここです。

「やらされる勉強」としてプログラミングをやってしまうようになることです。目的もなくひたすら金槌で釘を叩くようになってしまうことです。

本来のプログラミング、本来の勉強はそうじゃないんだよ、というくらいは伝えてあげたいですね。

■学校の勉強は、なんのために?

じゃあ、学校の勉強はなんのためにあるのか、という話になりますが、
ここまでの話で、「だから学校の勉強はやらなくても良いよ」というのは早計です。

むしろ、「学校の勉強は絶対にやっておいた方が良い」というのが僕の意見です。

あれほど疑問をもち、「勉強が何の役に立つのか」と思っていた子供時代でしたが、受験勉強の時だけは一生懸命に勉強しました。結果、一応高校も大学も進学校に進学することができました。

大人になったいま思うのは、学校の勉強はめちゃくちゃ使うじゃん。という事実です。

もし「学校の勉強が役に立たない」と言っている大人がいるならば、それは本来の勉強を全然していないのか、あるいは、学校の勉強の効果を過小評価しているかのどちらかだと思います。

大人になり何か目的をもって、さて、勉強しよう、突き詰めようと思った時には、やはり様々なことを学んでいかなければなりません。その時に、理解や思考の下地になるのが「基礎学力」です。

そして、その「基礎学力」を身に付けるのが、学校教育の正体です。

どんな分野を学ぼうと思っても、いろんな知識や言葉を知らないと勉強の効率がとても悪く、勉強すること自体がハードルが高く、苦痛になります。

僕の場合で言うと、理系科目は特に学校時代サボっていた影響で、それ系の分野を勉強しようと思ってもなかなか挫折してしまいます。数学とか、物理とか、化学とかです。あまりに知識がなかったり、基本的な素養がなかったりすると本当にゼロからやらなければいけず、自分での勉強も勧められないんですよね。

その結果、例えばですが、数学をめっちゃ使うプログラミング言語の習得は本当はやりたいんですが諦めましたし、物理学とかは本当はもっと勉強して世の中のことを知りたい(自分のやりたいことにつなげたい)のですがやってみてちんぷんかんぷんすぎたので諦めました。

国語をとってみても、基本的な読み書きの能力は大人になってからの学習能力に直結します。

学校の義務教育の中で身についている「知識」や、トレーニングしている「能力」は、実は計り知れないほど大きい、と僕は思っています。毎日あれだけの時間をかけて、しかも9年間も続けるわけですから、まあ当然と言えば当然かもしれませんが。

学校でやるどの教科も、本当は突き詰めれば限りなく深い世界がもっと広がっていて、それらを使って何か(=目的)をやる機会は世界には実は山ほど転がっています。先生も親もあまり知らないと思いますが。

学校の勉強をしないってことは、結局は、自分の可能性を減らすんですよね。

もちろん「学歴」という一面からもデメリットとして言えますが、そんな表面的なことではなく、本当に可能性を減らすんです。

大人になっていざ目的をもって本当の勉強をしようと思った時には、いろいろな分野の幅広い知識があることや、考え方の素養があることは勉強への入場パスになります。

入場パスをもっていないと、そこに入ることは難しくなります。

あーやっておけばよかった、というのはその時になって初めて分かるでしょう。

だから、学校の勉強は、「目的のない勉強」「やらされる勉強」ではあるのは違いないですが、「つまんないけど、基礎学力を獲得しておくと本来の勉強ができるようになるからやっておけ」という結論になります。

■子供の「勉強」に対してどう接すれば良いのか

最後に、じゃあ子供にどのように教育をすれば良いのかという話です。

1つは、筆者の森博嗣先生が言っていますが、子供にも正直に伝えることですね。

「本来の勉強はこうじゃないからね」とその実態を伝え、「学校の勉強はつまんないよ。だけどやっておこうね。」と正直に言うのです。

本来の勉強は目的をもって行うプロセスなのであって、目的なしに行う勉強は楽しくありません。目的なくただ金槌で釘を叩き続けるだけですから。

ただし、基礎学力を身に着けるには大いに役立つので学校の勉強はやっておいた方が良いのです。

2つ目は、親が勉強をすることです。

子供は親の背中をやはりよくみています。大人が目的をもって夢中になって勉強していれば、「なんだか世の中には面白そうなことがあるんだな」くらいは肌感覚で感じ取っているはずです。

大人になっても本来の勉強を全くしていない(気づいていない)人も多いと思うので、子供にとって周りに勉強をしている大人がいない環境は良くないなと思います。

親が勉強をしていれば、子供もいずれ本来の勉強とは何かということに気付き、自ずと向かう時がいつか来るでしょう。

3つ目は、人生経験を増やしてあげることです。

目的を持つためには、ある程度の人生経験が必要です。よって、生きた年数が少ない子供には本質的に目的を持つことは難しいと言いましたが、現代は経験の拡張範囲が異常に拡大しています。

例えば高校生ですでにプログラマーとして仕事をしている人はざらにいますし、中学生、さらに小学生でも起業家や研究者、発明家、作家、映画監督、作曲家、野菜ソムリエ、コーヒー焙煎士などなどあらゆる分野で活躍する子が普通に出始めています。

今は、知識や経験にアクセスするときのコストが劇的に下がっており、子供であっても何かしらの対象に強い興味関心をもてば、突き詰めていくことが可能です。

これらは紛れもなく「やらされる勉強」ではなく、「自分からやる勉強」です。本来の目的ある勉強です。

「子供だからといって経験が限られる時代は終わった」とも言えるでしょう。
学習がしやすい時代、行動がしやすい時代。恵まれた時代に私たちは生まれましたね。

まだ子供だからではなく、子供のうちから様々な人生経験をさせる(学校の外を見せる、体験させる)ことで、早々に目的が見つかり、本当の勉強を始める子も出始めるでしょう。ただし、周りと比べるものではないので、まあ、焦る必要は全くないですけどね。

ということで、以上「本当の勉強とは何か」というテーマでお話ししました。
お読みいただきありがとうございました。

ではまた。